Jeffrey

別離のJeffreyのレビュー・感想・評価

別離(2011年製作の映画)
5.0
「別離」

〜最初に一言、国籍の違いを超えて多くの人を惹きつける魅力があり、ローカルとグローバルと言う図式の考え方を排除した2011年最大の傑作だと自負するイラン映画。人間関係、社会的、政治的な側面、階級問題など様々なトピックが混在し、それを宗教交えて貧困格差でえぐり出した頗るドラマである。私は2010年から19年までに観た作品のトップ10に本作を入れている〜


冒頭、テヘランで暮らす家族。娘の将来、アルツハイマー病を抱える父、夫婦の意見は平行線、家庭裁判所に離婚申請、協議、物別れ、流産。北部の富裕層南部の貧困層、失業、先生、嘘。今、宗教を交えた些細な出来事が悲劇を生む…本作はアスガル・ファルハーディーが監督、脚本、制作を務めた2011年のイラン映画で、日本公開され、私が2010年代のベストテンに選出したイラン映画の傑作中の傑作である。この度BDにて再鑑賞したが素晴らしいの一言。当時この作品を見たときの衝撃は忘れられない。今見ても素晴らしいと思えるほど良い作品だ。このイランのテヘランを舞台に、離婚を決めたある夫婦とその周囲の人間模様をほんの少しのささやかな出来事によって破滅へと向かっていくこの宗教を交えたドラマは十分に見ごたえがある。本作はベルリン国際映画祭で最高賞である金熊賞を受賞し、銀熊賞の女優賞と男優賞のダブル受賞した作品で、アカデミー賞までも受賞されている。確か、審査員長含め全員が満場一致でこの作品を選んだと言う。ここ最近の3大映画祭ではまっとうな選択だと思う。といっても審査委員長を務めたのが女性のイザベラ・ロッセリーニであるから、なんとなく受賞結果もわかる。

日本では福岡国際映画祭の福岡観客賞を受賞し、母国イランのはファジル国際映画祭では監督賞、脚本賞、撮影賞、録音賞と観客賞を受賞し、更に帰国した監督が空港でファーラービー映画財団理事長アフマド・ミラライーが、イラン映画界は受賞を誇りにしていると述べたとか…。兎にも角にも受賞した当時は話題をかっさらった凄い映画である。既にベルリンでは銀熊賞受賞した前作の「彼女が消えた浜辺」を既に当時レンタルして見ていたため、この監督の最新作と言う事でワクワクしていた自分を思い出す。それは見事に期待を裏切らず最高のひとときを味わえた。そもそも本作を理解するためにはイスラムの教えを知っている必要があると思う。女性は親族以外の男性の前では、髪や肌、体の線を見せてはいけない。イラン革命後、イラン国内のすべての女性に外出の際、ヴェールの着用が義務付けられたり、外出時にはマーントと呼ばれる丈長のコートを着、マグナエと呼ばれる額から顎までの顔部分が露出するように仕立てられた頭巾を被ったり、チャードルと呼ばれる半円形の1枚布をかぶって、頭から足元まで覆うこともあったりするのだ。

これら頭部を覆う衣類を称してへジャーブと言う。本作では、ラジエーが外出時など黒いチャードルを身にまとっていることが多く、シミンはおしゃれなスカーフとコートと言う服装で済ましていることが多いが、これは、敬虔さの違いと言うより育った環境の違いが影響しており、ラジエーはずっとそうした環境で育ったのに対して、シミンは比較的自由な装いに慣れているからだと考えられる。公的な場では、地味な色のヴェール(茶、紺、黒、グレー等)が一般的で、本作で登場する学校の先生や病院の受付の人にそれがうかがえる。普段はカラフルのスカーフを身に付けているシミンも学校の授業では黒いヴェールを被っていた。ヴェールの着用義務は小学1年以上で、ソマイェ(娘)はまだ4歳のため、何もかぶっていない時がある。イラン国内では、外国人女性にもヴェールの着用が義務付けられているが、外国のテレビでドラマや映画に関しては、修正のしようがないので、そのまま流されている(性的描写などはもちろんカットされている)。

こうした衣装は、同じイスラム圏と言えども国ごとに差異があり、1時日本でも話題になったブルかわ目の部分も網状に覆い隠すもので、アフガニスタン特有の衣装である。だからマフマルバフの「カンダハール」の主人公が着用していたのはアフガニスタンが舞台だったからだ。イランでは、結婚するときに、離婚の条件や離婚の場合に支払われる慰謝料の金額なども含め、結婚に関する細かい取り決めがなされ、それが何ページにもわたって、契約書に書きとめられる。本作のタイトルバックの1番最後に写し出されるのは、そうした結婚契約書の1ページである。ナデルの家には、複数の大型冷蔵庫や食器洗い機、乾燥機、ピアノ、パラボラアンテナなどがあるが、裕福と言うほどではなく、ごく一般的な中流の家庭の風景である。イランのお金持ちは、日本のお金持ちとは桁違いに裕福であるが、イランの中流階級は日本の中流階級とほぼ同じような生活をしていると考えて良いのだ。

イランの教育制度は、小学校が5年、中学校が3年、高校が3年で、大学進学のための予科が1年あり、大学は4年となっている。小学校入学前に1年間予科に通うこともある。9月下旬(イラン歴の7月)から6月下旬が1学年の年度で、入学時に満6歳となるものが小学1年生に入学できる。男子には2年の兵役があり、大学に行かない場合は18歳から、大学に行く場合は大学卒業後に行くことになる。各学年で厳しい進学試験があり、成績次第では容赦なく落第となる。高校まで男女別学で、大学で初めて男女共学となる。イランでは、女子の就学率、進学率が高まり、高学歴化が住んでいる。ギャーライ先生がナデルの家に来ていたのは、テルメーの家庭教師をしていたためだ。学校の教師が生徒の家庭教師をするなどと言う事は日本では考えられないが、イランではごく普通に行われていて、教師の小遣い稼ぎになっている。

ナデルの父が失禁したことに気づいたラジエーが電話で相談した相手は、イスラム教の聖職者。後のシーンで、ナデルから慰謝料を受け取ることを罪になるかどうかを問い合わせていることがわかる。100トマンは約9円なので、介護の1ヶ月の賃金30万トマンは約2万7000円、撫、ナデルの保釈金4000万トマンは約360万円、示談金1500万トマンは約135万円と言うことになる。イランの通貨単位は、他に、リアル(10リアル= 1トマン)がある。なお、首都テヘランの一般家庭では、例えば、ナデルのような銀行員の1ヵ月の給料は、約60万トマン(約6万円)と言われている。イランでは新聞配達は有料なので、宅配ではなく、キヨスク等で買うのが一般的。ナデルの父が外へ出たがるのも、毎日、新聞を買うのを楽しみにしていたからだと考えられている。イランはチップ社会だが、サービス料の中にチップは含まれていることも多い。

イランでは庶民の足としてバスが使われることが多く、テヘラン市内でもいろんなバスが走っている。本作に出てくるような二両連結バスは手前が男性車両、後が女性車両で、ドアがいくつもあるような大型バスだと、真ん中で仕切られて、前が男性席、後が女性席となっている。小型バスの場合は男女混載となる。2000年にテヘランで運行が開始した地下鉄では、先頭車両が女性専用車となっている。夫婦は別姓。子供は父親の苗字を名乗る。妻が夫の名字で呼ばれることもごく普通に行われている。こういった事柄を知って本作を見ると非常に分かりやすく面白さが増すと思われる。さて前置きはこの辺にして物語を説明していきたいと思う。




さて、物語はシミンとナデルは結婚して14年になる夫婦。もうすぐ11歳になる娘テルメーとナデルの父と家族4人で、テヘランのアパートで暮らしている。シミンは、娘の将来のことを考えて、国外移住すべく、1年半奔走して許可を取った。しかし、夫ナデルの父がアルツハイマー病になったことで、計画が狂う。ナデルは、介護の必要な父を残して国を出ることができないと主張するが、シミンは、娘の為なら例え離婚することになっても国外に移住したいと強い態度に出る。2人の思いは、平行線をたどり、話し合いは裁判所に持ち込まれる。しかし、ナデルは、離婚は認めても、娘の国外移住は認めないと言って譲らなかったため、協議は物別れに終わる。その後、シミンはしばらくナデルらの元を離れて、実家で過ごすことにする。

一方、夫は家の掃除と父の介護のために、ラジエーという女性を雇う。彼女は、イスラム教のに敬虔な信者であるため、男性の体に触れることも罪になるのではないかと心配し、介護のために来ていながらも、夫の父が失禁すると言う場面に出くわし、ひどく動揺してしまう。また、彼女が目を離した隙に、ナデル父がふらふらと表通りで出てしまい、彼を探しに行かなければならないと言うことも起きる。ある日、ナデルがテルメーと一緒に帰宅すると、ラジエーの姿はなく、父がベッドに手をを縛り付けられたまま、倒れ気を失っているのを発見する。しばらくしてラジエーが戻ってくるが、ナデルは怒りをあらわにして事情も聞かずに、彼女を手荒く追い出してしまう。その晩、ナデルはラジエーが病院に入院したことを知る。心配した彼はシミンと2人で病院に様子を見に行き、彼女が流産したと聞かされる。

結果的に、ナデルは、彼女の流産の責任を問われて、19週間目の胎児に対する殺人罪で告訴される。ナデルは、ラジエーの妊娠を知っていて、彼女を突き飛ばしたのか。突き飛ばしたとしたら、それは流産させるほど強いものだったのか。一方で、彼の方でも、ラジエーがナデルの父にした行為に対して彼女を告訴する。裁判は、次第に多くの人々を巻き込んでいく。それぞれの思いが交差し、複雑に絡み合っていく。運命に翻弄されていく2組の家族。彼らがたどりついた結末とは…とがっつり説明するとこんな感じで、イラン映画初のオスカー獲得として当時話題になり、世界中の観客が心を奪われた人間ドラマの最高傑作で、スタンディングオベーションに包まれたベルリンを始めとする世界で90冠にも及ぶ賞を受賞した紛れもない傑作である。すれ違う想い、絡み合う秘密と嘘、愛する者との絆が、今試されると言わんばかりの素晴らしい作品である。


いゃ〜、繰り返し何度も見るほど好きな映画で、久々にBDにて鑑賞したがやはり傑作である。すこぶる好きだ。特別な事件など何一つわからないにもかかわらず、極上のサスペンス映画と言えるほどの様々なデリケートな問題が積み重なっていて、例えば老人介護や格差の問題、それだけでここまで映画に深みを与えられた脚本、そしてそれを演出した監督には拍手喝采しかない。それに離婚問題に揺れる子供の心情をも描いている。だからクライマックスで娘の正面の固定ショットで涙を流すシークエンスが非常に胸を打つのだ。彼女は決心したのだ、父親の元か母親の元か…だがそれは映画では答えを出さない。確かに、突っ込みどころもある。ネタバレになるためあまり多くは言えないが、例えばヘルパーの女が外に出て〇〇に遭遇して、〇〇をやってしまうなど、普通〇〇になったら即死じゃないかなどと思いつつ、結局消えた金の行き先はなど色々と疑問点も浮かび上がる。しかしながらそれらを外せば完璧なまでの映画である。


そもそもイラン映画というのはペルシャ時代からの古い歴史を持っているため、様々な良作な映画を作り出せると思う。イスラム教を土壌としているし、政治的な問題からすれば、現在のイラン対アメリカとヨーロッパの深刻な政治的なことを考えると非常に面白い点にも気づく。2021年になってついにバイデン大統領が中東から米軍を引き下げると言い出した。果たして今後どうなるのか、見守っていくしかない。我々にとってイランと言う国の中に存在する信仰や戒律と言うのは想像絶するものだと思う。対岸の火事でわれわれは論評するが、実際その国で生きている人々の姿をリアルに感じ取ることができないため、本当の気持ちと言うのを言葉にすることは難しいが、少なからず、東洋の人たちには想像もつかない事柄が根強く支配しているのだろう。そもそも80年代、キアロスタミの「友達のうちはどこ?」に始まり90年代パナヒの「白い風船」マフマルバフの「パンと植木鉢」マジディの「運動靴と赤い金魚」等のイラン映画と言うのはほとんどが少年少女にことを寄せた主題が多かった子供映画である。

しかしながら徐々に大人の映画、政治問題や戒律、今を生きるイランの人々たちの生活様式が多く映される映画が作り出されてきた。私はイラン映画が好きで大量に見てきているが、2000年代に入ってものすごく強烈だったのが、先程言ったマフマルバフの奥さんである彼女が監督をした作品で「私が女になった日」と言う映画があるのだが、これなどまさに今のイランの女性問題をえぐり出した傑作である。後に金獅子賞を受賞したパナヒの「チャドルに生きる」などでもそれらの問題を描いていた。それは制約が緩くなったからなのだろうか、だが、今でも亡命しているイランの監督(マフマルバフがそうである)も多くいる。少しばかり変わりつつあるイランだが、その全貌を剥ぎ取る事はなかなか難しい。しかし本作は違った側面と傾向を発見させてくれる意義深い映画になった事は間違いない。彼らを取り巻く現実問題は、歴史的背景と同時に同じ人間としての、悩みや嘘、一人ひとりの心の中に隠された真実の有り様が描かれることが多い。

そしてこの映画には2組の家族が登場するがそれぞれに階級差がある。まずは10代の娘を持つ夫婦の夫は銀行員で、妻は教師である。そしてそれぞれに車を持っているため中産階級と言える。奥さんは娘の将来を考えて、外国へ移住したいと思っている。しかし夫は自分の父親の介護があるためそれを拒む。そういった問題が冒頭のコピー機の描写で映し出されるのだ。すなわち離婚問題だ。それは後ほど言及する。そしてもう一方の夫婦は、町外れに住む夫婦と幼い娘だ。時折娘が睨み付けるクローズアップがあるが、それはすごく恐ろしい。その夫婦は、労働者の夫が失業中で借金もあり、生活が苦しいのだ。2つの家庭は、貧富の差もあるが考え方の違いが明確にある。それは社会的格差を表しているのだ。何が言いたいかと言うと、そちらの家族の奥さんは、すごく信仰深いのだ。いわゆる神頼みである。

普通金を持っていて余裕のある人間が神様助けてくれなどと思うことはなかなか無いが、貧しいものは全て神様へと助けを乞うのだ。それが社会的格差を表しているのだ。基本的に貧しい者と裕福なものが交わる事はほぼないだろう。しかしこの映画ではそれが何の巡り合わせか、結びつくことになるのだ。それが反発し合うのだ。それが運命の歯車を壊す引き金ともなる。唯一接点があると言えば共働きの夫婦と言う事だ。そういったものが、イランの現在の社会構造を打ち出すことに成功している。それがより人間の心の問題に迫られているのだ。「彼女が消えた浜辺」では、いなくなった女1人の行方を追って、人間の不可解な心を探し求める展開を描ききっていたが、本作はスリルが増していると思う。そもそも外国移住許可が簡単には取れないイランの現状が夫婦2人の会話から徐々にわかってくる。

教員である妻は何とかして制限付きの出国許可を得ているが、夫との和解ができないために苦労するのだ。さらにイランの文化だと思うが、夫は年長者に対する敬意の思いを強く貫く。ましてや自分の父がアルツハイマーと言う重い病気にかかってしまって、それを見捨てられることなど論外なのだ。ここで女と男のイデオロギーの違いが浮き彫りになる。それが溝へとなり、娘を苦しめる結果ともなる。しかも映画を見ていくと、たとえ離婚を受け入れても、娘を渡さない。そういった正面切って対立する夫婦の迫力は凄まじいものがある。一方でもう1組の夫婦は、血の気の多い旦那は、女に手を出さない代わりに、自分の頭を自分の両手で叩く始末だ。すぐに憤慨する体質である。癇癪持ちと言うことだ。それをおだてようとする妻の姿も何とも言えない。そして奥さんはとにかく戒律を守ろうとするのだ。まさに筋金入りの宗教者である。アルツハイマーの父親を介護するために、男の体に触れなくてはならない彼女が、電話でそれを確認する。その一部始終を見ている小さな娘がパパには言わないわと言うのだ。その場面もなかなか強烈である。

この二組の夫婦を同時進行で見ていくと面白いことに気づく。それはまずお互いの夫がまだ権力を持っていると言うことだ。さらに片方の夫婦では教員をしている妻は物事をはっきりと言う。いわゆるイラン社会で強い女性とみなされる自分の主張を持つ女性像である。もう片方の戒律を厳守する奥さんは、基本的には旦那に服従するのだ。だから銀行員の家で働き始めることも夫には内緒にしていたのだ。映画を見ていくと後に夫にばれて、とんでもないことにもなる。この二組の奥さん(女)は陰と陽に分けられている。シミンは陽。ラジエーは陰である。後にこの2人は混じりあい、ある秘策を提示するのだ。ここについては映画を見てからのお楽しみと言うことで触れないが、妊娠19週目に入って流産して、それが殺人だった場合に死刑に値すると言うなんとも重たい刑がイランでは通例のようだ。

ここで小さな嘘から裁判沙汰になり、妊娠を知っていたのか知っていなかったのかと言う堂々巡りがなされていく。こんな適当な裁判なのかと思ってしまう。どちらかが嘘をつけば何も前には進まないような気がしてならなかった。映画を見ても夫は知らなかったと主張し続け、労働者の妻が突き飛ばされたと言い、どちらかが事実でどちらかが偽りなのだ。ここで世に触れている銀行員の夫の妻は、直感的に夫を疑い、娘は父が嘘をついているのを知っているのだ。それぞれが嘘をつくと言うことになる。エゴが炸裂する。2組の家族は自分たちの家族を守りたいのに必死なのである。示談金を支払って、ことを収めようとする妻も、家族を愛するための方法だと確信している。しかし一方的な主張で自分が完璧正しいと言い張る銀行員の夫はそれに対して妥協は一切できない。イランと言う社会では妥協すると自分の罪を認めることになるのだ。

労働者の夫は金が欲しくてたまらないのだ。そして信仰深い彼女は、コーランにかけては、自分が正しいとは誓えないのだ。ここでコーランが絶対的存在へと上がってくる。こういった会話劇がなされる中、置いてきぼりになる2人の人物がいる。それは10代の娘とまだ幼稚園児ほどの娘2人である。その存在がこの映画では奇跡のように救いを映している。娘はただ1つ、離婚をされたくないのだ。だから父親の嘘も黙り込むのだ。なぜなら、娘が切札(ジョーカー)だからだ。娘の証言1つで全てが解決へと導かれるのだ。だが、彼女にも地獄のような選択技が訪れる。それを言うとネタバレになるため言えないが、映画のクライマックスでの出来事である。そしてこの映画のたび5度目の鑑賞をしたが、やはりこの映画の画期的なところ…いわゆる見所は、嘘が全ての悪の根源=離婚問題にしろ流産にしろ、失業にしろ全て嘘が責任あるものとして描かれているのではなく、それはすべて間逆で、老人介護や離婚の多くの問題が、2組の家族に"嘘"をつかせてしまうと言うことである。

そもそも、2時間もかけて郊外からバスで通ってくるヘルパーの女性を見ると、やはり圧倒的な社会階級が描かれてる。既に車を二台も持っている人たちからすれば、そんな事はどってことないし、考える余地もないのだろう。だからクライマックスの話し合いの時に彼らの車の窓ガラスが〇〇になっていたのは、そういった怒りのメッセージが込められていたのだろう。革命期のイラン社会でもなお、社会階層の差は厳然としていることがまずわかる。ところでこの映画を見た宿敵のイスラエルはどう思うのだろうか?少しばかり気になった。物語自体は平凡な日常も挟み込んでいるが、実際この映画が作り出された時代は、イランは核兵器を開発し、イランの核の脅威にさらされていた国がイスラエルである。そのため原子力設備を標的にイラン攻撃を躊躇わないとするのだ。しかもこのイランの核兵器と言うのはオバマ政権からトランプ政権へ、バイデン政権に変わっても今なお続いている。どこまでも長い話なのだ。

そもそもこの映画を見るとイライラすると言う人も中には出てくるかもしれない。それはイランでは胎児が2ヶ月を超えるとイスラムの法で赤子の殺人罪とみなされ、彼女はこの法を後ろ盾に雇い主のナデルを訴えるのだ。その一方でコーランに手を当てると自らの行動が神の教えに沿ったものだと誓うことができずに苦しむ。この点が非常に独特である。イランと言う国家の奥深くに蠢く人々の衝動が写し出されたワンシーンだ。そもそもこの二組の家族を見ると、やはりどちらかと言うとフォーカスされている主人公夫婦はナデルとシミンなのだが、テヘラン北部のアパートに住む彼らの部屋の中を覗くと、ピアノや衛星テレビのアンテナなどがあり、いわゆる世俗的な西洋文化の影響を受けた家庭であることがわかる。これもこの映画の同じテヘランに住む家族の対照的な人間模様の1つだった。

そして貧しい階級に生きるラジエーはテヘラン南部の地域に住んでいる。ここで北と南に2極化される。イラン独特のバザールも写し出される。しかも富裕層の家族とは違って、非常にムスリムに入り込んでいる。これは、2つの家庭の価値観、経済状況、生活様式の異なりや登場人物の不信と争いを増幅させるポイントになる。そうするとやはりイランの近代化の歴史と、1979年イラン革命後のイスラム化政策について触れておくとより一層楽しめるのではないかと思う。さて、話は長くなるが少しばかりイランの近代化とイスラームのことを話しておきたいと思う。イランは、1935年までアケメネス朝の発祥地ファールスに因んで、外国からペルシアと呼ばれてきた。1920年代に、パフラヴィー朝(1925 − 79)初代国王のレザー・シャー(在位1925 − 41)は、西洋列強によって強いられた不平等条約改正のために、シーア派宗教界の反対を押しきって、世俗的な法制度を確立するなど西洋化、近代化政策を推進してきたそうだ。第2代国王のモハマド・レザー・シャーも、1973年のオイルブームで急増した石油収入を、アメリカからの兵器購入と野心的な社会経済開発計画に費やした。

公共に浮かれる首都テヘランには、外国人ビジネスマンや労働者があふれた。農村から出てきた労働者一家が、テヘラン南部の水も電気も通っていないスラム街でひしめき合っていたのに対し、テヘラン北部の豪邸で国王一族やその取り巻きが石油収入や土地投機、外国企業からの賄賂で得たお金で、外国製品を買い漁り、ぜいたく三昧の生活をしていたそうだ。インフレと1977年の突然の不況は庶民の生活を直撃し、人々は王政に対する不満を募らせ、行き過ぎた西洋化と急速な近代化の反動としてイスラームと反米をシンボルとする革命運動に参加したのである。そうした中79年の革命後、イランイスラム共和国が設立し、シーア派宗教指導者ホメイニー師の弟子の率いるイスラム共和党が実権を握ると、政治、社会、文化、すべての方面でのイスラム化が強力に推し進められたのだ。そういった中79年3月に、イスラム政権は全女性に対するヴェールの強制着用と、学校や病院、公共交通機関など公共空間での男女隔離を宣言したのである。ここら辺は学校とかでも習った記憶があるだろうきっと。

そう言うのが長続きし、政府のイスラム化政策に生活の隅々まで支配される日々に息苦しさを覚えた人々は、次第に国外移住を模索するのだ。これが本作でも現れている。しかも80年から始まるイラン・イラク戦争(日本ではイライラ戦争と揶揄されていたことを思い出す)で、イランの中流階級の人々が、最も遺族を連れて海外へ出国する国がアメリカなのである。ロサンゼルスのウェストウッドにはイランゼルスと呼ばれるイラン人コミュニティーがあるほどである。90年代は日本にもイラン人が多く薬を売っていた。そして革命政権は主要産業国営化したが、イスラム法において個人の財産所有が保障されているため、革命後に社会主義体制のように個人の土地や財産がすべて国有化されたわけではないのだ。そのため、比較的裕福な家庭はテヘランの緑豊かで空気の綺麗な北側に住み、貧困層はテヘラン南部の環境のよくない場所に住むと言う革命前の社会構造は依然として存続したのだ。そして88年にイラン・イラク戦争が終了すると、外資導入と民営化を柱とする戦後経済復興政策が始まりるのだ。

だからこの映画でも、伝統的な世界観の中で昔ながらの生活を維持する貧困層、自由貿易ゾーンやドバイで買い物を楽しみ、インターネットや衛星テレビで外国映画や音楽を視聴するグローバルな文化の影響を受けた層と2極化する傾向になっているのだ。それもこれも補助金の減少とインフレによるものである。これが貧困層の格差が次第に広まった原因だろう。そして2000年以降、イラン人の平均寿命が70歳まで伸び、介護が必要な高齢者が年々増加しているにもかかわらず、イランでは老人介護施設が非常に少ないと言うのが問題視されていた。それは、老人介護は家族の役割であり、介護施設に入られた老人は大変不幸であると言う社会通念を原因とするものなのだ。だから夫は一生懸命誰かを雇い介護させようとしているのだ。これは、テヘランの北と南の家庭を結ぶ共通の課題と言っても過言ではない。

そうした中、宗教問題がここにも現れる。宗教的に合法か違法かを急いで電話で問い合わせるラジエーのシーンがあるのだが、イランでは、直接的に男性の体を触ったりすることを禁じている。そのため確認をいちいちするのだ。そもそも親族ではない男性の肉体や汚染物に直接触れ、介護する事は精神的にも社会的にもかなり高いハードルを乗り越える必要があるとされている。そのため、イランでは介護士や介護スタッフは、社会的に地位の低い職業と見られがちであるらしい。この映画は、高齢化と言う現実問題に対し、政府も社会も十分に受け入れの意識と体制が整っていないことを鋭く指摘してのではないだろうか。ちなみに、イランでは、女性から離婚わ申し出ることはできないそうだ。この作品でも裁判制度について考えさせられるシーンがいくつもあった。

そもそも個人主義的なイデオロギーの影響を受けた法律によってイスラムの宗教を揺るがすと言うことで、79年2月末にその廃止を宣言したホメイニー師がいる。そこから女性から離婚要求する権利は、夫が性的不能か精神異常の場合など著しく制限されてきたそうだ。だが今日女性たちの熱い運動の結果、現在では、夫のDVや麻薬中毒や義務を果たしていない場合には、女性からの離婚を家庭裁判所に申し立てできるようになったらしい。そうするとやはりイランにおける女性の権利拡大の背景には、革命後、イスラム政権による教育の普及への努力、識字率の向上が関係していると早稲田大学イスラム研究機構研究助手の貫井万里氏が言うように、当局の男女隔離政策は、これまで進学や就業を許されていなかった敬虔なムスリムの家庭の女性や農村の女性たちの進学、社会進出を促し、1998年には、女子の大学進学率が男子の進学率を上回るに至ったそうだ。

近年、イラン各地の家庭裁判所では、ポケット版家族法を片手に、夫の理不尽な行状にたまりかねた女性たちが、離婚を要求し、できるだけ高い婚資と養育権の獲得を目指して戦っているようだ。これらがベルリン国際映画祭をはじめ全世界で受賞のオンパレードになるきっかけとなる、他人事ではない問題の提示による優れた面なのだろう。だからこの映画は見る人の立場によって何もかもが変わっていく不思議な映画とも思う。とにかく問題のあぶり出し方がえげつなく強烈である。ほんとに脳裏に焼きつく映画と言うのはこのことを言うのだろう。冒頭の身分証明書をコピーするシーンから、離婚するほど状況が悪い理由を椅子に座り話している夫婦の真っ正面のショットで始まるファースト・カットも最高だ。この堂々巡りの会話が既にイランの現状を浮き彫りにさせている。しかも淡々と会話劇が流れる中、長回しでカットが変わらないため、役者がひたすらカメラに向かって芝居をしているのが凄すぎる。そして係りの人が署名してくれと言って、しぶしぶ署名してその場を立ち去り、ここでようやくカットが変わる。ここまでおよそ5分間。そして人混みの中、2人は立ち去る。次のカットでは、階段から大きなオルガンを下に下ろそうと階段から踏ん張っている業者の人と本作の主人公の奥さんがやりとりをする場面へと変わる。



そして娘のカットに変わってから、この映画の不穏さが一気におびただしい量で流れ込む。そして家族が出払って、その家政婦と娘が認知症の父親と3人で過ごすことになるのだが、ここからがこの映画の凄まじい演出が静かにやってくる。まずは認知症の父親が粗相をして、家政婦の神経質な女性が極力彼に触らないように、説明して自分で着替えさせたりするのだ。彼女はヘルパーとしては非常に適していない能力である。しかも妊娠済である。そして子連れ、非常に相入れないのだ。しかも電話で、宗教に対して色々と聞くところを見ると、罪を怖がっている。ここは日本人の私にとって非常に興味深かった。まず日本でヘルパーをやっていて、自分が着替えさせたら罪になるでしょうかと電話をしたりする事はほぼありえない。そして娘はそれを見て、パパには言わないと言って、お利口さんと言う始末である。一体全体どうなっているんだと思うのである。


そして続いて、出払い中の娘と父親がガソリンスタンドで、娘がガソリンを入れているところで、お釣りをもらったかと聞くと、チップで渡したと言って、セルフでやっているのにチップなんかあげるなもらって来いと言うのである。絶対的な権力がここで写し出される。まさにイランの社会を映し出す男女格差である。そしてその貰ってきたお金を娘に小遣いとして差し上げるのだ。まさに物を与える側の男を強調している。女は男の所有物と言う問題が浮き彫りになる。そしてヘルパーの女は夫にここで働いてくることを内緒にしているのだ。しかしながら自分にはにが重いと思い、自分の夫をここの家のヘルパーにさせようと、その家の主人と話をするのだ。そして互いに秘密を守り、主人はヘルパーの旦那に直接会いに行く。しかし夫は金貸しのトラブルに遭い、来られなくなり妻が引き続きヘルパーを継ぐのである。さて、ここからがこの映画の本領発揮と言うところだろう。あのいわれなき罪、業務放棄した事柄、家族の怒り、そして些細な嘘…それが両家族の運命の歯車をおかしくさせていく…。


いや、あのお金を盗んだだろと男に言われ絶対に盗んでないと言う女との会話が凄まじい。潔白を主張する女の意地が炸裂する。それにしても裁判で、流産よりも嘘つき呼ばわりされたことが許せないと言うのには正直驚く。子供を失ったのにそれでも嘘つきの方が嫌だと言うことだ、信じられない。この映画はネタバレすると一気に驚きが減少するためなかなか言えないが、ほぼほぼクライマックスの秘密を打ち解けるシーンなどはすごい緊張感がほとばしる。そしてあの唐突な終わり方、不意をつかれた…果たして娘の下した決断は…。この映画を普通に見ていると、特殊性がやはりある。中流階級の女性でも下層階級出身の女性でも、扱い方は変わらず、男性が全てを支配しているのだ。金持ちだろうが貧乏人だろうがそこは関係ないのだ。しかしながら、イランの社会で生活したことがない私にとっては、イラン人女性について断片的なイメージしか持っていない。例えば、家に縛り付けられていたり、社会活動から程遠い場所に置かれたり…そういったイメージが最初に来るが、現在では大多数の女性たちは非常に活発で、奪われた権利を回復しようと奮闘していると思う。この映画も少なからず反骨心が強く態度に現れていたシーンがあったし。



本作は第61回ベルリン国際映画祭に置いて、最高賞である金熊賞を満場一致で受賞し、さらに銀熊賞(男優賞と女優賞)を受賞し、しかもそれぞれキャスト全員に対してと言う前例のない最高の賛辞を贈られたイラン映画である。世界中の映画祭で喝采を浴び、第84回アカデミー賞では外国語映画賞受賞し、イラン映画として初の栄光に輝いている。監督は、キアロスタミを始め多くの巨匠を生み出してきたイラン映画会の新鋭である。本作は脚本のきめ細やかさが素晴らしく、巧みの演出で、人間心理の複雑さを掘り下げていく感じがすごく磨きかかっていて、前作以上に素晴らしい映画になっている。まさに進化していく監督だ。確かアメリカでの公開では観客からの満足度が年間トップに値するほどの上位をキープしたと言う記憶がある。しかもこの映画は基本的に観客が選ぶ観客賞と言うのを軒並み受賞しているから評論家だけではなく一般観客からも大絶賛の支持を勝ち得ていると言う証拠がある為、いかにすごいかがわかる。

この監督の映画を見ているといかにリアリティーのあるすごみな人物描写と、いくつもの伏線を張り巡らせた緊張感溢れるストーリー展開だなと思ってしまう。だから我々アラブ語などがわからない日本人としては、字幕を見るのとは別に、画面が一瞬も目が離せないほど虜になってしまうことがある。単に善悪では割り切れない人間心理の複雑さを描いた濃密な人間ドラマが展開され、夫婦の離婚問題から、介護や格差社会の問題、信仰や信条、論理に関わる立場の相違、果ては司法のあり方までを浮き彫りにしているから素晴らしい映画だと思うのだ。特に冒頭のシークエンスで一気に観客は離婚問題が出されると一瞬にしてわかるような書類のコピーの印刷演出がなされているのも素晴らしく思う。映画の舞台であるイランのみならず、世界中どこにでも起こりうる物語として、現代社会に生きる私たちすべての心を大きく揺さぶったことは間違いがない。それがベルリンの評価につながったのだと思う。細やかな出来事が大きな問題へと発展していく、まさにそういったのは人生に1度は誰しも経験することでは無いだろうか…。

やはりファルバディは脚本からキャリアをスタートさせているだけあって、脚本家としての才能は特に高いと思う。実際に脚本賞たくさん受賞しているし。しかも困難な状況に追い込まれた人々が作り出すドラマや、登場人物それぞれの心理の移り変わりをきめ細やかに描くことに重点を置いていて、それが作品をユニークなものにし、かつ彼の作品の特徴の1つにもなっていると思う。しかもビジネスとしても成功させているため、イラン国内でのセールスは素晴らしいの一言だろう。まさにフィルムメーカーと言うべきだ。ナデル役を演じたペイマン・モアディも実のところ俳優と言うよりかは本業は映画の脚本家である。監督の前作「彼女が消えた浜辺」で彼の名前そのままの役で映画に初出演し、本作は2作目にあたる。シミン役のレイラ・ハタミはイラン国内では誰もが知ってるアリ・ハタミ監督を父に持つ女優である。

ちなみに判事役のババク・カリミは本業は俳優ではなく映画編集者で、イタリアを拠点として、ドキュメンタリー映画を中心に活躍している人である。彼はあのオムニバス映画「明日へのチケット」でも編集に加えて演出やプロデューサーも務めている人物だ。監督は、その作品で彼の演技を見て、本作の出演オファーしたとの事だ。そして娘役のサリナは本作の監督の実娘である。今回が女優として本格的にデビューになった記念碑的作品である。


それにしてもオバマ政権時代のイランとアメリカの関係並びに国際情勢の中でのイラン映画初のオスカー獲得が非常に注目するべきだっただろう。何せ緊張感が続いていたのだから。だから監督が受賞スピーチをした時は非常に感動的であった。確か世界的なニュースにもなっていたと思う。ここで、彼のスピーチを引用したいと思う。

"今、世界中の多くのイラン人が喜んでいると思います。ただ単にこれが大事な賞だからではありません。世界では戦争や武力攻撃の話ばかりが政治家の間で交わされています。政治の重たい塵に埋もれてしまっていた私たちイランの国の中名が、その素晴らしい文化、豊かで古い文化を通じて語られているから喜んでいるのです。私は誇りを持ってこの賞を、私の国の人たちに捧げます。あらゆる文化、文明を尊重し、敵対的な行動を憎むイランの人たちに捧げます。"である。そして最後に余談だが、監督は友人の家のキッチンにいる時、突然隣の家からイランの歌が流れてきて、本作のアイディアを再び構築したそうだ。ベルリンの友人宅のキッチンで生まれたと言っても過言ではないとインタビューに答えていた。
Jeffrey

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