odyss

聖処女のodyssのレビュー・感想・評価

聖処女(1943年製作の映画)
4.5
【人々は奇蹟にどう対応したか】

実際にあった事件を映画化したものだそうです。

19世紀の半ば、フランスの田舎の小さな町で、貧しい家の少女が美しい貴婦人の姿を見ます。実はその貴婦人は少女にしか見えないのですが、少女は貴婦人に言われるままに毎日その姿を見、指示を聴くために外出します。やがて町の人々も彼女について、見えない貴婦人を礼拝するために集うようになる。そして最後に少女は貴婦人に命じられて地面を掘ります。すると泉が湧き出て、その水には病人を治す不思議な力があるというので評判になるのです。

160分に及ぶ長尺の作品ですが、それだけの内容が盛り込まれているので退屈しません。つまり、これは単なる奇蹟譚なのではなく、その奇蹟に周囲の人々がどう対応したかという物語だからです。

貧しく無知な少女が聖母らしい貴婦人の姿を見ているという噂に、町の上層部のお歴々は穏やかではありません。上層部とは市長と検事と警察署長ですが、彼らは最初は少女がデタラメを言っているのだと考え、おどかしたりすかしたりして彼女の「詐欺」を暴露させようとしますが、功を奏しません。

また、町の教会に勤める神父や修道女にとっても、少女の言い分は危険なものです。何しろ少女は病気がちで学校でも欠席が多いので、覚えるべき教義もろくに知りません。そうした無知な少女が、なぜ熱心にお勤めを果たしている修道女をさしおいて聖母の姿を見ることができるのか。ここは、学識としての教義を熱心に学ぶことと、無知ではあっても純朴であることのいずれが真の信仰に近いか、という微妙な、しかし宗教というものにつきまとう問題が絡んでいます。

上述の町の上層部の三人の中では、市長は早めに姿勢を変えてしまう。なぜなら泉の水を求めてフランス中から人が集まるようになったので、観光で町を潤すことができると思い至ったからです。しかし三人の中でも最も知性的な検事は、最後まで少女が聖母を見たのだということを認めようとしません。19世紀は今から見れば昔ですが、近代科学が勃興し成長した世紀でもありました。検事はいわばそういう時代の精神に殉じたわけです。

また、少女が本当に奇蹟に出会ったのかどうかは、最終的にバチカンが判断することになりますが、そこの手続きだとかが、キリスト教に無縁な東洋人である私からすると滑稽なほどに煩雑で、ここにも教会は本当の信仰にどの程度つながっているのかという問題が潜んでいそうです。

少女は、学校や教会から教えられる教義を熱心に覚えたから奇蹟にあったわけではない。そして、周囲の人々から嘘を言っているのだろうという嫌疑をかけられても、ひたすら自分が見たもの、聴いたことだけを語り続けます。耳で覚えた学問ではなく、自分の体験だけを一途に語る彼女の姿が印象的な映画です。

ヒロインの少女を演じるジェニファー・ジョーンズが大変に美しく魅力的。彼女がこの作品で1943年のアカデミー賞主演女優賞を取ったというのもうなずけます。
odyss

odyss