MakotoIwamoto

自転車泥棒のMakotoIwamotoのネタバレレビュー・内容・結末

自転車泥棒(1948年製作の映画)
3.6

このレビューはネタバレを含みます

「何か1つの側面を見ていると他の側面が見えなくなるということ」

この映画のラストシーンの、父子が歩いているシーンで何も感じなかったら人間じゃない、という言葉をどこかで聞いたことがあるのですが、僕は号泣したので人間です。

戦後職のない人々の中で主人公リッチは職ををもらうことができます。なぜならリッチが自転車を持っているからです。仕事の内容は壁に広告を貼っていくという、まるでアルバイトみたいな仕事です。この時のリッチの発言が印象的です。

「夢のようだ」

しかしリッチは困り果てます。自転車を質に入れてしまっていたからです。リッチは妻と家に戻ります。家には子供と生まれたばかりの赤ちゃん。ベッドに腰掛け打ちひしがれるリッチを妻はどかして家中のシーツを集めます。シーツを質に出して、そのお金で自転車を取り戻すことにしたのです。見事試みは成功、自転車を取り戻します。2人はもらえる給料の話をしながら希望に包まれて笑顔で帰途につきます。「半月で7000リラも貰えて、家族手当と特別手当が出るんだ」ちなみに先ほど質に出したシーツ7枚で貰ったお金は7500リラ、自転車は6100リラで取り戻せました。

そしてリッチは張り切って仕事を始めます。しかしリッチはすぐに、自転車を盗まれてしまうのです…。

こうした背景を踏まえれば、この後どれほど必死でリッチが自分の自転車を探すのかわかると思います。

この映画は戦後職もなく貧困にあえでいる人々を詳細に描いてます。

主人公を含め登場人物たちの行動原理にはある共通点があります。それは「何か1つの物事しか見えてない、あるいは表面のことしか見えてない」ということです。

警察に自転車を盗まれたから探して欲しいと頼むも軽く追い払われます。リッチにとっては生活の全てがかかっていても、警察には単なる自転車盗難事件だからです。
闇市で新しく仕入れた自転車のフレームに塗装してるだけで、それは盗難品だとリッチは詰め寄ります。
リッチとリッチが犯人だと思ってる青年との取っ組み合いを周りの人間が見て、とにかくリッチを悪者扱いにします。
実際リッチが犯人だと思ってる根拠は見覚えある帽子と後ろ姿と(実際リッチが見えたのか見えてないは不明)一瞬見えた横顔で、確かな根拠なく青年を犯人と決めつけます。
自転車を取り戻すんだということで頭がいっぱいで、リッチは守るべき息子をぶったりします。また自転車が無ければいけないという考えに引きずられ、最後には他人の自転車を盗んでしまいます。

リッチのことについて多く述べましたが、この映画に登場する人々はみな1つの物事や表面のこと、目の前のことに気を取られて他人に冷たく当たります。

しかし最後にそうでない人物が登場します。リッチが盗んだ自転車の持ち主です。
捕まり大勢に囲まれたリッチが警察に連行されようとします。しかし持ち主は、リッチの息子が涙目でリッチに擦り寄るのを見て「いいんだ、今回は見逃してやれ」とリッチを放します。持ち主は別の側面、リッチがなぜそうしてしまったのかの背景を察して言ったのです。俺だったら絶対訴えるけどなと周りの人は言います。

この映画のすごいところは悪人が1人も登場しないところだと思います。悪いことをしている、あるいは他人に冷たいことをする人々がでてきても、彼はなぜそうせざるを得ないかをきちんと映像で示しています。

デ・シーカが自転車泥棒を通して伝えたいことはこういうことだと思います。泥棒はリッチがポスターを貼ってる隙に自転車を盗みます。それと同じように、戦後のイタリアの社会状況が生活の原動力や良心を奪っているのではないかと思います。「敗戦」「貧困」が、本来善い人である人々の視野を狭くして
他にも道があるはずなのにそれしか見えなくしている、そうした状況がリッチのような人物を生み出す。リッチのような人間がそこかしこにいる。
だからこそ、観客に、リッチのような人間が生み出される背景を理解して欲しい。また観客自身がリッチのような人間だったら、他にも道があること、視野が広げられることに気づいて欲しい。

劇中に出てくる女占い師が恋愛相談に来た男に言います。「女はその子1人じゃない。他にもたくさんいるんだ」

悲しい結末に終わるけれどもなぜか希望が持てる作品と言われるのは、こうしたデ・シーカのメッセージが随所に込められているからだと思います。本当に良い作品だと思います。
MakotoIwamoto

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