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デッドマンのWILDatHEARTのレビュー・感想・評価

デッドマン(1995年製作の映画)
4.7
『死にゆく男が見た悪夢の走馬燈
—ジャームッシュ版「神曲 地獄編」』


死ぬときに我々のマインドをよぎるのは一体どんな光景であろうか。
もしかするとそれは、とてつもなく奇妙な妄想や幻想的な物語かもしれない。

この映画は、心臓に銃弾を喰らって死んだ男(dead man)が、薄れゆく意識の中で死ぬ間際に見た一瞬の幻想の中の旅を描いた物語なのではないだろうか。

お尋ね者となって、自分の命を狙う殺し屋や保安官たちから逃走する旅を続けるという、死に際に脳裏をかすめた狂気の夢。

夢の旅の水先案内人は、風変わりなインディアンの男であった。

インディアンが自分のことをホラ吹きだと述懐し、名前をNobody(誰でもない者)と自称することはこの映画の構造上の大きなヒントとなっていると考えられる。
誰でもない者とはこの世に実在しない者、すなわち幻想の中の登場人物であることを示しているようである。
そして、自分がホラ吹きでこれはホラ話だと言明することで、この旅が現実ではなく全てはお前が見ている幻想であって今俺たちはお前の夢の中に居るんだよと、ウィリアム・ブレイク(ジョニー・デップ)に教示しているように感じられる。


このインディアンは、ダンテによる古典文学の名作叙事詩「神曲 地獄篇」における地獄巡りの案内人ウェルギリウスが投影されたキャラクターと取ることも出来よう。

実際、ウィリアム・ブレイクの旅の道程には地獄の如き死屍累々が転がることになる。
喜劇的な死の旅としか呼びようの無い、笑ってしまうほど野蛮で凄惨極まるナンセンスな悪夢が展開する。

そうして、死にゆく者が見るこのナンセンスな一瞬の夢に人生を象徴させ、「人生とは意味不明な一瞬の夢である」とこの映画は暗示しているように感じられる。


さて、ブラックアウトする映画のエンディングにおいてウィリアム・ブレイクの意識は閉じ彼の人生は終わりを告げるのだが、それでも依然として夢の旅は終わってはいないのではないだろうか?
彼の死後もバックグラウンドで際限なく繰り返されるニール・ヤングのギター・リフのように、時間は過去から現在そして未来へと直線的に流れるのではなく、ただぐるぐると同じところを永久に回り続けるだけである。


暴力と死のイメージで埋め尽くされたこの映画を目の当たりにするたび、生も死も、暴力も、そして愛さえも、曼荼羅の如くぐるぐると回り続ける永劫の時間の中で延々と繰り返される剥き出しの野蛮な魂の放電(スパーク)に過ぎないことを思い知らされる。


ガンファイトによって成長しスピリチュアルな境地へと辿り着くロードムービーであることにアレハンドロ・ホドロフスキー監督の「エル・トポ」(1970)との類似性が見て取れるが、「エル・トポ」と同様に鑑賞を儀式化して体験することが相応しい映画であるように思われる。

今ではこの儀式を年に一度行わずには居られないほど人生の一部になってしまった。

↓Dead Man / Neil Young
https://youtu.be/Y8pCup9oErk
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