清太「節子! それドロップやない、飛行石や!」
節子「バルス!!!」(大日本帝国が崩壊! ふたりは生きたまま終戦!)
……冗談はさておき、これを通しで観るのは二度目かなぁ。胸かきむしられる名作で生きる気力が吸われました……😱
主役ふたりがすでに死んでるところから始まってネタバレも何もないと思うので以下ざっくばらんに。
○子供の餓死死体とその幽霊から始まるお話が小さい子供向けなわけない……😭
○スタジオジブリの美術はやっぱり素晴らしいです。冒頭の爆撃機&焼かれる街のディティールとか、後半のなにげない田舎の風景とか。どこを取っても匂い立つようなアニメーション。
○序盤の空襲シーンが一番劇的で、全体の進行自体はとても淡々とした映画だなーと。正直そこまで弾むタイプじゃない。
○でも、冒頭の駅員から学校の先生から医者にいたるまで、みんな人の死に慣れ切ってて淡々としており、死体や病人に対してもなんの感情も示さないところはショッキングで良いです。
○ヒロインたる節子の描き方にめっちゃくちゃ力が入っている。笑うときも泣くときも、病めるときも健やかなるときもものすごーく入念にその喜怒哀楽が描写されており、実際の子供がやってるあどけない声もあいまってものすごーくかわいらしい。なのでストーリーだけならまぁ何とかって感じなんだけど、かわいい彼女があまりに可哀想すぎて観てられない……というところが一番の強みな作品かなと……。笑った顔がだんだんクシャクシャ崩れていって泣き顔に変わるとことか、幼児の表情の変化をここまで綿密執拗に描いてる作品もそうそうないんじゃないでしょうか。思い出すだに可哀想すぎる……。
○序盤のハイライトは、母親が重傷を負ったのを知った清太と、無意識にそれを察知している節子が校庭の砂場にいるシーン。背景に焼けた町を置いたこのシーンでは校庭の砂地が現実よりも過剰に広く描写されてて、これから寄る辺ない生活を強いられる残されたふたり、という状況を強調しているような。緻密なリアル性よりも心理描写のほうに重点を置いた印象的なシーンでした。んでもってここであの悲しすぎるBGMが初めてかかるという寸法……。逆に自分はこの手の象徴的な絵作りをもう1、2回ぐらい入れてもいいのかもーと思ったり。(追記。音楽はOPが先かな? 忘れちゃった)
○全体の構図をめちゃくちゃ簡単にまとめると、兄妹ふたりの体制&生活からの逸脱物語だと思う。戦争末期の窮乏生活(物資的にも人間関係的にも)に耐えられないふたりは、「お国のため」になるようなことは全然せず、束の間の楽しい時間をふたりだけで過ごしまくる!ーーでも楽しいときはすぐに終わって苦しい現実(おもに空腹)に直面せざるをえない、というサイクルを延々繰り返すうちにしだいにふたりが追いつめられていってしまう……というのが全体のストーリーなのかなと。映画の常として、「ふたりだけの世界」はたいてい長くは続かないのでありました……。
日本の第二次大戦を描いたアニメとしてはもっとも有名なもののひとつだと思うけど、その設定はわりと特殊な気がする。『この世界の片隅に』とか『窓ぎわのトットちゃん』みたく、体制&生活への不満と苦痛はあっても、そこから完全に逸脱するまでには至らない物語のほうがベタで「ふつう」のような。でないと終戦後の日本を生きる画面の前のお客自身の物語にならないってのもあるのでしょうけど、でも『火垂るの墓』は子供ゆえの逸脱とその果ての死……というのをやり抜いちゃってるところが逆に凄みだと思う。
○夜の防空壕に捕まえた蛍をいっぺんに解き放ち、その光の中に清太が日本海軍のきらびやかさを夢見るシーンがすごく印象的でした。一瞬ピカピカ輝いて見えるけど早晩滅びのときがやってくるというイメージのもとに、「蛍」=「清太と節子」=「日本軍」=「大日本帝国」を一直線に結びつけてるようでちょっと圧巻。
○この映画って、自力で生きようとした強情っぱりの清太が悪かったのか、それともこの時代の社会が悪かったのか、って話があるけど、自分は一応両方ともあるように描かれてるのかなと思いました。ただし、前者を経由しての後者、というのが作り手の思い描いた見方な気はする。
この時代の多くの人たちと同様、戦下の日本を生き延びることを最優先に考えるなら清太は愚か極まりなくて、だから困窮の果てに節子も守れず、兄妹ともども死なねばならない。それがこの時代の社会の枠組みからはずれた者に訪れる一つの現実ではある。その点では彼らにつらく当たる「いじわる」な叔母さんや周囲の人たちも別にふつうっちゃふつうではあると。ーーでも、あとの世代である我々の目には、そもそも彼ら子供たちにそれを強いているこの時代の空気のほうがもっと非道で暴力的だったんじゃないの? という問いが浮かび上がってくるという……。
結局ふたりは子供だから生きるすべを知らないので、現実的には嫌みを言われながらも親戚の家で暮らし続ける以外の選択肢はなかった。けど、そこで強いられる窮乏困苦はこの時代と国家が全国民に押しつけていたそれなんじゃないの? っていうね。
清太と節子がふたりっきりで過ごしている時間は一種ユートピア的で、それは日々の暮らしに汲々とせざるをない周りの人たちにはほぼほぼ得られない時間ではある。でもそれって逆にいうと、時代と体制によってみんな余暇も子供時代も何もかも取り上げられてた、みたいなことでもある気がします。自分が追いつめられてると他人に寛容になったりできないもんだよねぇというのを、自戒も込めて思ったりしました……。
(書いてて思い出したけど、同時上映だった『となりのトトロ』って不在の母の代わりに早くからオトナの代わりをしなきゃならないサツキが、トトロのおかげで子供の心に戻れる話では? みたいな見方があるじゃないですか? そういう目線で見ると、帰結は真逆だけど計らずも『火垂るの墓』とまったく同じテーマを扱ってるのかもしれないですね。『トトロ』も見返したい)
○力のないちっちゃなアウトローとして規範から逸脱していくふたりを見送る、「いじわる」な叔母さん&農家のおじさんの何とも言えないやるせない目線……。
○終盤が哀しすぎるけどやっぱいいですねー。戦争が終わって頭上には青空が広がり、これからみんなは新しい生活に向かっていくのに、清太だけは死んだ節子を焼くための炭を買いに行ってるっていう。戦争は終わったけど彼ら兄妹は負けている……つまり戦争という状況によって人生が根本的に破壊されてしまっているという、このどうしようもなさが素晴らしいです……。自分はこういう「敗戦映画」が好きなんだなーというのに最近気づきまして、これもそのリストに追加しておきました😆 ちなみに他の好きな「敗戦映画」には『日本の悲劇』(1953)、『浮雲』(1955)、『秋津温泉』(1962)、『マリア・ブラウンの結婚』(1979)とかがあったりします。
○映画全体が”回想”電車から始まり、死んだ清太と節子が生前の暮らしを訪ねて歩くという語り口になっています。そこにはもちろん生き延びられなかった無念も強くあるんだけど、それと同時に、死んでよかった、死ぬことで初めてふたりは安らぎを得て解放されたんだっていう、ふたりに対する「温かい」眼差しもまた確実に含まれているように感じて、そこが自分は何よりショックだったかも……。生前にはドロップを全部食べきっちゃって代わりにおはじきを舐めながら死んでいった節子が、亡くなったあとは思う存分ドロップを食べられてるんだもの……。
ラストで2秒間ぐらい清太がまともに画面のこちらを見つめてくるのもキツいです……。まさに『君たちはどう生きるか』ですね^^
○押井守は「濃密な近親相姦的雰囲気に満ちている」みたいに評していて、確かに清太を中心に見るとそういうところもあるかもと思いました。母親を失い、周囲との関係性も断ち切ってしまった思春期の清太は、節子を守りながらも同時に彼女に、異性のぬくもりや一種の庇護者性(=母性?)的なものを無意識に求めてるように取れるところがあると思う。防空壕で寝ているときに節子を強く抱きしめて「兄ちゃん痛い」と言われるところとか。あとはそれまで自分を保ってきた清太が、芋盗みに失敗してボコボコにされ、警察から出てきたところを節子に優しく迎えられて完全に庇護者の仮面が崩壊し、ボロボロ泣き崩れるところとか……。そのへん精神分析的(なのか?)に見ると、ひとりの異性として見ているというよりはそれらに分化されていない女性像がないまぜになったものとして節子に接しているところがある、という感じかなぁ。結局彼はまだ子供に過ぎんのよなぁ……。
○野坂昭如のドライな語りの原作とはまったく違う、高畑勲自身の作品に仕上げていて、やっぱりええなーと思いました💡