表は鶴の恩返し
裏には女性のという生き物の儚くも尊い物語と解釈
物と金を動かす菅原文太
噂や世間話、情報を流通する川谷拓三
無知で無垢な野田秀樹
社会の普遍性が小さな集落にも有る
そんな山の人々の中に異質な鶴が
鶴(女性)は男の好きだという言葉に懸け、懸命に働く
生物として未熟な生き物である人間の乳呑み子
女性は子を産む事でその土地に根をはる、しかし鶴は渡り鳥
子を産む訳ではないが果たして鶴は…
単なる鶴の恩返しと見る人はこの映画を楽しめない、この辺りの裏側の差だろうか
鶴はまた、そもそも飛ぶことの出来ぬ鶏を逃がしてしまうのだが、自身も矢により飛ぶ自由を失ってしまったのだろうか
昔は母体も命懸けだった出産。無理強いで布を作る姿は産めぬであろう体の女性のそれに私は見えていた
いかに女性を描くのかそこが焦点であると思って観ていたが、脚本として社会の縮図を地盤としてそこまで描けてる作品だったので信頼もすでにあった
十分楽しめた
照明も緻密
黒い家の床へ当て木のしずる感わかりやすかった
ドアの抜けで真っ白だが、その前に立つ人物はシルエットにならず補助でしっかりと。演技の一挙手一投足に集中できる
映画観賞後、知った事だが
監督の一家の子供いたのか調べていたのだが。
脚本の和田夏十は「東京オリンピック」の間もなくから乳癌を患い、18年の闘病の末この映画の5年前に亡くなっている
自分には和田さんがどれ程に、生前いつ頃から、この脚本に手をつけていたのかは定かでない
夫で長年の共作者市川崑や吉永小百合の思いを感じずには要られない
音楽担当の谷川賢作、その父谷川俊太郎と市川崑との対談によると
患った和田夏十は遠藤周作に相談しクリスチャンになる
ある時に市川が「僕に出来ることが何かあれば」と尋ねたら、「洗礼を受けて兄弟になってくれ」と言われ乗り気でないが夫また入信している
シンセ、琵琶など分け隔てなく音楽を使っているが最後の曲アメージンググレイスには何故だろうと思って観ていた
吉永小百合は「私は本当は鶴です」と言い残し去って行くが
最後に翔んで行ったのは本物の鶴、あれは鶴ではなかったのだ