ピアノと言うと、思い出すのが「アマデウス」
印象的なのが、
今は、ある理由から精神病院にいる宮廷作曲家だったサリエリ(F•マーリー•エイブラハム)の元を訪れた司祭に、こんな曲を知っているか?と、あるオペラ曲をピアノで演奏する。
司祭が知りませんと言うと、私のオペラ曲を知らんのか、と不機嫌になったサリエリは、じゃあこれはどうだ?と別の曲を奏でる。
司祭は、曲に合わせてメロディを口ずさみながら、「ああ、それは知っていますよ、有名な曲だ、あなたの曲でしたか」と嬉しそうに微笑む。
サリエリは、すっかり軽蔑の眼差しで「…違う。ウォルガング•アマデウス•モーツァルトの曲だ」と呟き、かつてのモーツァルトと音楽で時を同じくした日々を語り始める…
かくしてサリエリの回想の形で、モーツァルト(トム•ハルス)との葛藤と運命の熱いドラマが綴られていく。
《アイネクライネ•ナハトム•ジーク》
ここでサリエリが演奏したのが、「アイネクライネ•ナハトム•ジーク」の第一楽章、アレグロ。モーツァルトの代表作なので、第一から第四まで、誰もが一度は聴いたことのある曲ばかりだと思います。
(ちなみに私が、第二楽章のロマンスアンダンテが意外なところで使われていて思い出すのは「エイリアン」ですね)
【アマデウス】
モーツァルトは、悪意なき傲慢と全く空気を読まないで世渡りできる無礼極まりない振る舞いが、恐ろしくはた迷惑な人物である。
しかし彼には、英才教育に裏打ちされた天衣無縫の音楽の才能と超越した絶対音感があった。頭の中で作曲が出来るのだ。しかもその場で、編曲もやってのける。
サリエリがモーツァルトの歓迎のためだけに作った曲が、皇帝の目の前でその餌食にされるところは、苦々しいどころではない。
「ここをこう変えれば、この曲は腑抜けじゃなくなるよ、ハッハッハ」
なんて、やられた方はたまったもんじゃない。
ここらあたりから、観る者は、凡人扱いされていくサリエリの気持ちを追うようになる。
思えば、サリエリはモーツァルトとの間で互いが対立するとか、何か根深い確執があるわけではない。
一方的にモーツァルトの才能への嫉妬に狂い、自分の中にいたたまれない確執を作り上げて、運命の宿敵として憎むべき虚像アマデウスを作り上げていくのだ。
この格差とプライド崩壊の過程の見せ方が上手すぎるのだが、日夜悶々とするサリエリのねじれた屈折、憎悪にしかつながらない屈辱感、敗北感はただ事ではない。
しかしながら、
病に臥したモーツァルトを訪れるサリエリとの揺さぶられるようなくだりは、音楽を愛する者同士の共鳴が胸を打つ…
【サリエリ役とモーツァルト役】
F•マーリー•エイブラハムの地底から湧き起こるような怒りと苛立ちをグッと抑え込んだ重力に巻き込まれたような演技は、闇の輝きを放ち、何か炎のようなものを感じさせる。
対する軽佻浮薄なやりたい放題のモーツァルト像を作り上げたトム•ハルスも素晴らしい。
オスカーはエイブラハムに渡ったが、2人に主演賞を与えて欲しかった。
私が心酔するミロス•フォアマン監督、渾身の一作「アマデウス」は、舞台演劇の映画化としてあまりにも完成度が高く、もはや名作とかいう枠では括りきれない、史上に刻まれた深い刻印のような作品だと言いたいです。
【謎】
あの有名なポスターのイラストの黒装束の悪魔のような人物が誰なのか?は映画の中で明かされます。
フィクションとして書かれたサリエリの毒殺説は、説得力がありながらも、何かにつけて“主よ感謝します“という言葉を忘れない、異常に信心深い人物だけに俄かに信じられないところもあります。
放っておいても、放蕩者モーツァルトの方が早逝だったのは間違いないでしょう。
人生35年間で626の曲を作ったらしいです。
【ディレクターズカット完全版】
※昨年Blu-rayを購入した、ディレクターズカット版という劇場公開版より20分長いバージョン。大きな違いでは、丸々カットされていた名バイプレーヤー、ケネス•マクミランのコミカルな出演シーンが登場します。
…が、ストーリーにはほぼ影響ありません。
コンスタンツェのシーンがいくつか増えていて、影響ありの部分もあります。
それとは関係ありませんが、毎度思うのが
宮廷内にいる学長だの長官だの伯爵だの、何だかんだのおいちゃんたちの顔が、なかなかマンガです。
笑おうと思えば笑えるレベルです 笑笑