パイルD3

わたしは最悪。のパイルD3のレビュー・感想・評価

わたしは最悪。(2021年製作の映画)
4.0
「パストライブス再会」のような、女性がひとり中心にいて、2人の男性がモヤっとその横にいるトライアングルフォーメーションの構図は映画の中には数限りなくありますが、30歳の独身女性の視点から見える三角形を描いていたノルウェー映画が「わたしは最悪。」

これは私自身のやってきたことも含めて、いろいろ考えさせられるおもしろさと、傲慢、未練、自立心についても今一度揺れ戻しみたいなのがチクチク胸元を突いてきました…

※映画はプロローグ、エピローグと12章のスキットで描かれるので、色々考えてしまった自分の感想もスキットスタイルにしています。
あんまり意味ないけど 笑


《傍役人生??》
「パストライブス〜」と大きく違うのは、
男たちが主人公のユリヤ(レナーテ•レインスヴェ)の奔放?正直?な生き方に振り回されるところ。

ところが当のユリヤは振り回しているなどとはこれっぽっちも思っていないし、逆に、いつもマウントを取りたがる男たちに、人生の傍役を演じさせられて来たというストレスから憤りを感じている。
具体的にマンスプ(Mansplaining)批判の会話も出てくる。

私は、これだけガチで全てをビシビシ選択し続ける人は充分人生の主人公をやっていると思いますけどね、それはまだ自分探しのステップなのかも知れないが、その都度、これイヤ、あれダメといちいち歯切れ良く答えを出しておいて、傍役??

《不倫》
不倫も普通に選択する。でも、ねぇ…不倫ですよ?不倫、不貞、不実
不倫てサスペンス度数高めの失楽園アバンチュールだから、断じて傍役の所業では無いと思う。踏み入れた時点で登場人物2人だけ、その中心人物になる。逃げ場のないダブル主演状態。
映画の中では、この周りが見えなくなった2人のアバンチュールを、周囲の世界を停止させた面白い手法で見せるが、不倫に走る高揚感を見せるシーンでもある。

この不倫感覚は、女性の方から見るとどう見えているのかどなたか教えてください(笑

男2人とのそんな意識のすれ違いが、彼女の人間としての自立にどう影響して行くかのストーリーです…

《男目戦、女目線、監督目線》
男性と女性では見方が違ってくる内容になっていますが、ユリヤは自由思想に近い考え方で、古い偏見や伝統主義、権威志向の社会から脱出したいように見えます。

監督ヨアヒム•トリアーは、終始この辺りのフェミニズムの定点観察をするかのように、ドラマをユリヤの言動に合わせて進めて行きますから、観る側が“誰“の“どこ“を切り取るかで、人物への視界深度みたいなものが変わる作品だと思います…


【わたしは最悪。】

優秀な成績で医学の道へ進みながら、人体を扱うことを嫌って、少し距離を保てる心理学のカウンセラー志望に鞍替えするが、これも詰め込みで知識を増やすやり方に不満だらけで、突然、さらに距離感を保てる写真家を目指すと言い出す…

このプロローグ部分はストーリーのすべてを表していて、後々出てくるユリヤ本人の言葉にあるように彼女は“新しいものにすぐ目移りする“女性だ。男に対しても…。

《思慮》
観る側も、こんな彼女の気持ちの変移を汲み取りながら展開に着いていくのだが、この人、時にかなり言葉が過ぎるところがある。
恋人の親戚に会った時「彼女はアタシを嫌ってるわ」といきなり口にする。
彼が身内を気遣って「シャイなんだよ」と言うと「つまり退屈な人ってことね」と皮肉って笑う。

とりあえず、何を言ってもいいのだが、意外とそのあたりの思慮は誰に対しても浅い。でも実際に、この手の近づきたくないタイプはいる。そんなキッ!とさせる部分を隠さず見せたことには価値がある。

医学、心理学を学んできて身についたセンシティブなインテリ部分と、フィジカルコンタクトへの渇望部分(ま、性欲ですけど)を見分けながら理解しなくてはならない。

何かを相談するような仲良しの友人が出てこないのは、悩み続ける面倒さ、隠し事の面倒さを排除した、自分に正直な女性でもあるからだと思う。
少なくとも友だちには恵まれない、自分さえ良ければという人物だ。
世間にも稀にいる右脳と左脳がゴッチャになっている人物疑惑、もあるが…

《出会い》
パーティで知り合ったコミック作家のアクセル(アンデルシュ•ダニエルセン•リー)と恋に落ち、カフェで働くアイヴァン(ハーバート•ノードラム)とも街中の他人のパーティで知り合い、あっさり心を動かされる。

こうして3人のねじれこじれが繰り広げられるが、ユリヤポジションからの自己中心の視点はブレない。男視点から見るとブレて欲しいくらいだ。

ユリヤは映画の中で2回髪を切る。小分けの12章よりも、はるかに重要なマインドチェンジのサインになっているので、要チェックです


↓↓
◼️以下ネタバレあり⚠️

最後に小さな疑問が残った。
ユリヤは歳とったらどんな女性になるのだろう?何となく母親のように寛容な人物にだけはなれない気がする。早い話、分からず屋で、身勝手の限りを尽くすイヤな女性だ。

《最悪なのは誰?》
ふと思うのが、オリジナルタイトル「Verdens verste menneske」=The Worst Person in the World(英題)、
“世界最低の人間“という皮肉めいた冷笑は
誰のことか?

ストーリーの中では、パートナーと登山しているアイヴァンが、不倫の小さな反省も交えて“自分は最低の人間に思えたが、抗えなかった“というセリフを吐く。
この人物はあっさり不倫に走る凡俗な弱さがある。

アクセルは自作のボブキャットという毒舌ヒーローの風刺コミックを、女性蔑視、性差別、お前はサイテー最悪だ!とメディア討論でなじり倒される。
ただそれはアート領域の話、彼は別れたユリヤから別な男性との妊娠の話を聞き、“それはお祝いしなきゃ“とすぐに答える。

彼の心中はどうあれ、この言葉は殺伐とした恋愛ドラマの中で異なるきらめきを放つ。
私にはこの女性にだけは言えないし、
強さがなければ言えない言葉でもある。
そしてユリヤを称賛する言葉を伝える。
心やさしき人物なのだ。

じゃあ、ユリヤは?
対人間相手の医学、カウンセリングを切り捨てて、2人の男性とも別れて、レンズを介して間接的に人と向き合うスチールカメラマンの道を歩み始める。
邦題のひと言は、彼女の小さな後悔や、戸惑いの中でのつぶやきに聞こえる。
“わたしは最悪。でも間違ってはいない“と。

アイヴァンのその後もチラッと描かれるが、
これはユリヤのひとつの訣別と家族、子供への希望を仄めかしてはいるが、やや蛇足にしか見えなかったし、無い方がドラマとしてはスッキリしたように思う。


出会いよりも別れの見せ方、セリフのやり取りに、監督のこだわりが見え隠れしますが、
これは見ものです
パイルD3

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