カラン

バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリストのカランのレビュー・感想・評価

4.5
ニューヨーク、ブロンクス。オープニングは完全な白色がスクリーンの全面で光っている。ヴィンチェンゾ・ナタリの『CUBE』(1997)のラストの白痴を想起させる狂ったピュアホワイト。クレジットが流れるが、野球のNYのメッツとLAのドジャースのチャンピオンシリーズについて、ラジオDJとインタビュアーが罵りあいを続ける。NYメッツは3連敗で、次戦に負けたらシリーズは終了になる。

警部補の男(ハーヴェイ・カイテル)はこのシリーズの賭けにのめり込み、抜け出せなくなる。賭けが苦境に陥るとコカインとアルコールの摂取が止まらなくなる。酩酊状態で気が大きくなってまた賭けに出る。そこに教会内で修道女がギャングレイプされる事件が起こり、犯人逮捕に5万ドルの懸賞金がかかる。。。

つまり、『バッド・ルーテナント/刑事とドラッグとキリスト』という邦題は、内容を過不足なく表すならば、ルーテナントは刑事でなく警部補なので『バッド・ルーテナント/ 賭博と覚醒剤とキリスト』となる。


☆ドーパミン

青年の恋は異様である。誰かに電話をかけたくて、かけられないが故に食事を摂取できず、眠れず、水を飲むのも忘れて、目だけはぎらぎらしているが憔悴した顔で街を徘徊し、あの人をただただ求める。生体の機能を時に破壊するほどの恋の威力は本能なのだろうか?

しかし、こうした恋愛主体のイメージは、覚醒剤を求めてゾンビ化して彷徨う薬物中毒者のイメージに簡単に変更できるだろう。あるいは、賭博者である。のめり込み、リスクを認識しているのに、賭けに勝利した時の幻影を求めて、自己破滅的な道を邁進する。

恋は本能だという人もいる。覚醒剤はどうか?賭博者は本能なのか?脳の中の非常に原始的な部位にある報酬系が、人間の極めて強い衝動が発生する時には、活性化しているらしい。恋と覚醒剤と賭博は、ドーパミンの脳内分泌を促進する活動となるらしい。こうしたドーパミンは統合失調症の発症にも関与しているらしい。その幻覚症状は重度の麻薬依存者の幻覚症状と似ているという話もあるようだ。こうした幻覚が例えばイエス・キリストとの邂逅というファンタジーとなるならば、伝統宗教と種々の依存症や精神疾患の相関関係が浮上するのだろうか。

しかし、報酬系という脳内の回路やドーパミンという脳内物質はいかにも生物学的な説明で、本能、を根拠付けているように思えるが、おそらく、半分も事態を解明しないのではないか。


 ☆ Zoë Lund

この人は、劇中でハーヴェイ・カイテルの覚醒剤のインストラクターとして、静脈注射を生々しく行なっている女優である。そしてこの映画の脚本を書いた人物である。

彼女はFilmarksでゾー・ルンドとなっている。wikiはゾーイ・ルンド。レニー・クラヴィッツの娘はZoë Kravitzと書き、ゾーイ・クラヴィッツと表記される。しかし標準的な英語での発音は/ˈzoʊ.i/であるので、「ゾー」と伸ばさない。ゾウイ・ルンドが実際の音に近いだろう。

この彼女によれば、本作で監督を務めたアベル・フェラーラは、大した貢献をしていないらしい。例えば、撮影の数分前にセリフを書いて、それを覚えて演技をしたこともあったと。彼女はドラッグの女王とも周囲に見られて、実際に中毒で37歳で死ぬ。アベル・フェラーラは本作の撮影のために、監督と脚本家はドラッグの中毒にならざるをえなかった、と語っている。

本作は、薬物と賭博と宗教への強烈な衝動を生々しく、そのままに撮影したのであろう。その数々の薬物乱用はゾウイ・ルンドがクィーンとしてインストラクトしており、ほとんど自分の実人生の切り売りなのだろう。だから即興の脚本も書けたのだろう。そういう獰猛さが露呈した本作は、彼女の人生のリアリティーが刻印されたインプロビゼーションが溢れており、ヴェルナー・ヘルツォークとニコラス・ケイジといえどリメイクは容易ではないだろう。アベル・フェラーラは、ゾウイ・ルンドの話が本当ならば搾取していることになるが、映画の3分の2は傑作である。ゾウイ・ルンドのパワーを発揮させた時点で彼は、少なくとも部分的には、成功したのであろう。


☆宗教的体験の錯覚オチ

野球の言い争いで始まった本作は、賭博と覚醒剤への依存の強度が不可逆的にエスカレートしていく様をドキュメンタリー的な生々しさで描く。それが本作の素晴らしい魅力である。そこに修道女のレイプ事件が起こり、この事件は未決のまま、賭博と覚醒剤(さらにアルコール)が抜き差しならない状況になって初めて、動き始める。ここがアベル・フェラーラの腕の見せ所になるはずだ、ゾウイ・ルンドではなくて。しかし私の考えでは、弱いだろう。説明的で強度が低く、モチーフが混ざり過ぎていて、描写がうまくいっていない。

(1)踏み込んだ部屋で

教会での幻視の後、拳銃を突きつけられてメキシコの青年たちは呆然としている。本当にこの青年たちがギャング・レイプを行ったのかは判然としない。彼らは、やった、と自白していないだろう。少なくともラストの禁断症状で消耗したハーヴェイ・カイテルが拳銃を突きつけたら、誰でも自白するし、その自白は強要されたものだろう。

しかし、令状も権利の読み上げもしないでいきなり拳銃を突きつけたら、場合によっては検挙が無効になってしまうだろうが、ルーテナントは焦っている。なぜならば、金を払わなければ彼は殺される。しかしそうすると、イエス・キリストとの教会での邂逅が、堕落しきったルーテナントの願いが聞き届けられて、奇跡的に犯人検挙に繋がったというご都合になりさがる。

本作は①覚醒剤を吸引から静脈注射にエスカレートさせながら、ゾウイ・ルンドの素晴らしいインプロビゼーションを取り込んで、極めて生々しいショットを繰り広げてきた。②野球賭博も素晴らしい強度で不可逆的に進行していく。これに応じるために、ラストの3つのシーンでは③宗教的体験の一気呵成の展開が必要になるが、それが弱い。

(2)車内の逡巡

ハーヴェイ・カイテルはイエス・キリストに邂逅した後、聖杯を持った地元のおばさんを媒介して、犯人を見つけて、賭博の負債を一部返還して延命するチャンスを迎える。そこで、イエスの幻視体験を寸断しないために、それを効果として説明し始める。青年たちを連行する車内でハーヴェイ・カイテルは逡巡し、ぶつくさ言いながら、計算している。イエス・キリストに従うのか、紙箱に入った3万ドルと懸賞金で延命するかを。

キリストに従うならば青年たちを赦す=解放することになる。しかし、その場合は自分は借金の肩に命を落とす。車内に青年たちを乗せて車を走らせ、その後、長距離バスの発着場での見送りの後、映画が終わるまで逡巡は続く。

推進力が低いのだ。それは直接的にはハーヴェイ・カイテルが逡巡して悩んでしまっているからだろう。イエスの語った「善きサマリア人の喩え」によれば、ある行為は自分の得にはならないことでも自発的意志に基づいて自由になされる場合には道徳的な行為となりえる。ハーヴェイ・カイテルの逡巡と自らの死に至る他者の罪の赦しはそうした、「善きサマリア人」として、優れて道徳的になされた行為だと、思う人はほとんどいないだろうが、言えるのかもしれない。しかし、レイプされた修道女が毅然とした態度で青年たちを赦すと既に描いていたわけだから、ハーヴェイ・カイテルの逡巡はイエス・キリストの幻視効果の描き方としては、矛盾したエピソードとなるだろう。

(3)まとめ

宗教的体験が幻覚だというのは簡単であるし、耳タコである。19世紀のニーチェや20世紀のフロイトやベルイマンが散々やった後で、唯物論的な政治制度が宗教の弾圧に失敗している現代社会にあって、宗教は錯覚だなどというのは駄弁なのだ。錯覚であると簡単にいう割にはなぜだか21世紀の死因の筆頭候補ではないか。本作がベルイマンやタルコフスキーのような最高水準にならないのは、下劣だからではない。つっこみが足りないからだ。

アベル・フェラーラが教会での幻視体験を覚醒剤や賭博と同じ強度に引き上げようとするならば、レイプされた修道女とまったく同じやり方でレイプ犯を赦さなければならない。ハーヴェイ・カイテルの逡巡は、現実的な態度を反映した幻視効果の説明になっており、本当はこんなことしたくないし、ありえないことだけど、、、という譲歩で宗教体験を説明している。不可逆的に進行した覚醒剤や賭博に対して、あたかも別の選択(青年たちを逮捕して借金を返済)もできたとでも言わんばかりで、宗教的体験の威力を弱体化させてしまう錯覚オチになってしまっているのである。

アベル・フェラーラはカトリックの家に生まれて、作品に影響が及んでいるという。ならば、一層に弱いということになるだろう。幻視のキリストのビジュアルが素晴らしいだけになお残念だ。




レンタルDVD。4Kリマスターが劇場で公開されて、そのBlu-rayも近日発売になるようだが、現行のDVDは90年代初頭のものとしては普通に良い。リマスターもいいが、アベル・フェラーラの作品を再販してほしい。特に、ゾウイ・ルンドの主演した『天使の復讐』(1981)か。

55円宅配GEO、20分の13。
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