まぬままおま

害虫のまぬままおまのレビュー・感想・評価

害虫(2002年製作の映画)
5.0
中学生を主人公にした映画の最高傑作だと思います。
塩田明彦は天才だ。宮崎あおいも天才。蒼井優も天才。

以下、ネタバレを含みます。

『どこまでもいこう』では学校と放課後に生きる小学5年生を、『カナリア』では学校という安全圏から疎外された12歳を描いたなら、本作は学校と安全圏外の世界を行き来しながら成長する中学生を描いた作品と言えるだろう。小学生はやはり考えが未熟であり、学校か安全圏外かの単純な二項対立の発想でしかない。しかし中学生は小学生よりも社会性を身につけているからどちらかの世界に埋没することはできない。さらに身体性にも着目すれば、小学生は自身の身体の価値を分かっていないから、由希のように素朴に身体を「売れる」。けれど本作のサチ子は身体の価値を分かっているから、タカオを「受け入れるし」、ラブホで躊躇する。その中学生の心情や世界の描写が的確で素晴らしい。

最初のカットが凄まじい。枕の羽毛が部屋に舞い落ちていて綺麗だと思ったら、カメラが動き、サチ子の母を映す。母が自暴自棄になって自殺未遂をしたことが、次のカットの蒼井優演じる夏子らが噂話をすることで発覚するのだが、サチ子の生きる家庭が凄惨であることが2カットだけでとてつもなく伝わってくる。そしてその噂話をする中学校の教室では、サチ子の机と椅子は空っぽだ。サチ子が不登校になっていることも分かる。

学校という安全圏から疎外された彼女は街をぶらつく。元教師で恋仲ーけれど恋文をするだけのプラトニックな恋愛ーな彼に想いを馳せて、図書館や桟橋に寄生する。彼女が夜道を歩いていると、おじさんがストーキングするのだが、そこで助けてくれるのがタカオである。タカオは年上の当たり屋などの犯罪で生計を立てている人物であるが、彼とサチ子は仲良くなる。同じように街をぶらつき、キュウゾウという変質者とも仲良くなる。学校外は安全圏外の世界ではあるが、サチ子は彼らと関係することで自らの世界を構築して他者と共生を始めるのだ。

けれどサチ子は自らの世界だけを生きることはできない。サチ子は精神的に不安定な母がいる家庭に帰らなければならないし、夏子が気にかけてくれるから学校にも戻らなければいけない。

サチ子は夏子の中学生らしくて可愛くもうざったいお節介で学校に登校し始める。夏子にピアノの才能を見出されて合唱の伴奏者になる。合唱の伴奏も成功する。文化祭にも居場所ができる。同い年の彼氏もできる。それは文化祭中に、夏子が気になっている彼が、夏子を呼び出しサチ子に告白するという、夏子にとって不条理な出来事ではあるのだが。そのことにとても胸が締め付けられるが、夏子は優しいからその現実を受け止めて、サチ子は楽しい学校生活を送り出す。

はずだった。サチ子にとって同い年の彼なんてガキでしかない。タカオや元教師に比べて魅力の欠片もない。サチ子と彼の帰り道デートのぎこちなくて楽しくない風景が、サチ子の心を満たさず、「すれ違い」が起こっていることを如実に示している。

サチ子の家庭も最悪になっていく。母には新たな恋人ができるが、彼女は新たな恋人と馴染めない。さらにその彼に、レイプされそうになる。もう最悪だ。せっかくサチ子は、安全圏で生きられそうになったのに、彼女はまた放擲されてしまう。

疎外された彼女はまたキュウゾウとつるみだす。理科の実験で学んだ気体の実験をしてみたり、蛙の内臓を爆竹で爆破してみたりする。ガソリンを盗む。火炎瓶をつくってみる。火炎瓶に火をつけて照らされるサチ子の満面の笑みが本作の中で一番可愛いのだが、火炎瓶が投げつけられる対象は夏子の家なのである。このいたずらの純粋さが、彼女の害虫さを最も体現していると思う。だがそのいたずらが取り返しのつかない犯罪だと気づいた時、サチ子は悲痛の表情に変わってしまう。彼女が後ずさりしてカメラ外に逃げようとしても、カットは容赦なく変わって「逃げられない」。その映像表現にも感嘆するのだが、サチ子は絶望の淵に立たされる。

罪を犯し安全圏にいられない彼女は逃亡する。元教師がいる北の地に。だが運命は彼女を見放すかごとく二人は「すれ違い」、サチ子は怪しげな男の車に乗ってしまう。男はきっと水商売の斡旋業者だ。身体の価値に気づいたサチ子はどのようにサバイブしていくのだろうか。そして害虫はどんな成虫に成長してしまうのか。その未来は雪が舞い落ちる空のようにどんよりしていて、私は暗澹たる気持ちになってしまうのだ。