レインウォッチャー

スパイダー/少年は蜘蛛にキスをするのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

4.0
「人は見たいと思う現実しか見ない」とは、かのユリウス・カエサルの言葉とされる。
今作は記憶にまつわる映画、中でもその曖昧さ、実体のなさに迫り、体感することを実現した映画だ。ある男のごく個人的で狭い世界の中、張り巡らされた糸の奥へと分け入っていく。

冒頭、列車から一人の男が下りてくる。くたびれたコートに靴も鞄も擦り減って、何かぶつぶつと呟く様子は明らかに尋常ではない。
彼は、キャパオーバーとなった精神病院を退院させられて中間施設へと送られたのだ。久方ぶりの故郷の街で、彼は自らの少年期と母にまつわる記憶を思い返す…

映画は、主人公の男と視点を共有しながら進んでいく。彼は小さな手帳を持っていて、そこにはどうやら日記か回想録のような内容が、彼にしか分からない文字でびっしりと書かれている。
彼はそれをキーに過去へと戻っていくのだけれど、少年の彼が父母と過ごす光景へとシームレスに参入するように描かれる。こちら側も、まるで幽霊か観察者のような彼の主観に基づいてその光景を見守ることになる。

まず何を置いても、彼を演じたR・ファインズの存在感が見事だ。
部屋でも上着を脱がず、シャツを何枚も重ね着し、常に何かに怯えているようでもある…多くを語らずとも、その眼は過去だけを見つめ続けており、現在の何も映っていないことがわかる。(※1)

オープニングクレジットの映像では、様々な壁が映しだされる。と、間もなく、壁の汚れやシミのようなものが、ロールシャッハテストの図柄のように見えてくる。
パレイドリア(※2)と呼ばれる心理現象でも知られるように、人は目前に散らばった点と点を無意識に補完するように繋げて、何かしら納得できる「意味」を作り出そうとするものだ。この傾向は、そのまま今作の骨子に繋がっていく部分といえる。

主人公が記憶を遡る中で、彼がその場には居なかったはずの出来事についても「目撃」する。ここでわたしたちは違和感を覚え、彼が嘘とも認識できていない嘘があることを知る。
それは映画を追うミステリ的な推進力にもなるわけだけれど、終盤に真実が明らかになったとき、種明かしそのものよりもっと深く、重い、複雑な後味が残る。

すなわち、わたしたちが過去や思い出と認識しているものは、記憶の断片の継ぎ接ぎでしかないということ。
はっきり説明・描写できる光景なんてごくごく一部だけれど、その集合を遠景でぼんやりと捉えた像が自らを形成していると信じて疑っていないのだ。実はボロボロの隙間を、わたしたちは心が壊れないように繕ってなんとか繋ぎとめている。

『スパイダー』(少年期の主人公が母から呼ばれた愛称でもある)がもたらす四方八方に伸びた糸のイメージや、主人公が完成できないジグソーパズル、飛び散り集められるガラス片といった描写の数々も、この思考を後押しするものだ。

この主人公は、確かに病んでいた。しかし、彼とわたしたちに決定的な差なんてあるのか?きっかけひとつで瓦解してしまえるんじゃあないか?

深く考え始めると、なんだか明日から自分じゃなくなってしまうような恐るべき感覚。
ボディホラーから心理ホラーに移行しつつ様々な変身を追求してきたクローネンバーグは、ここにきて観客すら変えてしまう悪魔の業に至ったのかもしれない。

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音楽はお馴染みの盟友ハワード・ショア。寒々しい画面に、無調ぽいピアノが映える。
しかもなんと、クロノス・カルテットを従えて!ゴリゴリ主張したりはしないけれど、「品のある狂気」とも呼ぶべき静かな凄みを漂わせている。

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※1:クローネンバーグは、役作りを進める一貫で、ファインズに劇中と同じ服装で各地を旅行してもらったりしたそうだ。結果、獲得したリアリティは今作の格を明らかに底上げしていて、クローネンバーグ×ファインズの座組が現状今作しかないことが惜しく思える。

※2:電車や車の前面が人の顔に似て見えるとか、こぼしたコーヒーにキリストの姿を見出すとか、そういう類のやつだ。