レインウォッチャー

ロスト・キング 500年越しの運命のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

3.0
英国産のくせに普通にイイ話…だと…?

「一般人女性が希代の悪王の遺骨を発見し、同時に評判を覆した」。
この事実自体は興味深いし面白い、でもこの映画にはそれ以上も以下もなく、じゃあwikiでよくね、ってなる。いやS・ホーキンスやS・クーガンはとっても熟キュート(じゅきゅーと)なんだけれどもさ。

これはひとえに、主人公がなぜ件の王=リチャード3世の発掘と名誉挽回にこだわるのか、その設計が弱いことに尽きると思う。

一応、彼女は仕事も家庭も思うようにいかず、難病を抱えたりもしていて、そんな自分の姿と不当に貶められてきたリチャード3世とを重ね合わせた…って構図は序盤に示される。
ただ、流石にそれだけだと後に続くアクションとの釣り合いが取れず、普通に思い込みの激しい迷惑な人に見えてしまう。確かに彼女の説は正しかったわけだけれど、それって結果論だよね、という気もしてくる。要するに、物語映画として見たときには《リチャード3世の発掘》と《主人公の人生の課題の解決》がもっとがっつりハーモニーで結びついてほしいのだ。

もったいないのが、彼女の前に現れるリチャード3世のヴィジョンだ。彼は幻覚なのか幽霊なのかわからないのだけれど、彼女の意思に反応するように姿を現す。
ところが、折角こんなに良い映画(フィクション)らしいフックを作ったにもかかわらず、うまく機能させられていない。結局このリチャード3世が何の役に立ったっけ、といえば、遺骨の場所を仄めかしたくらいだった気がする。

たとえば、ちょっと似たような存在をうまく使った近年の映画として『ジョジョ・ラビット』を思い出してみたい。
この作品の舞台はWWII渦中のドイツ、ナチスに憧れる少年が主人公で、彼にはイマジナリーフレンドとしてのヒトラーが見える。このイマジナリー・ヒトラーは少年にとって《老師》的な元型に近く、つまり現実に不足している保護者・指導者としての側面を持ちながら、やがて乗り越えるべき存在として物語上の役割を果たす。少年が無垢に理想化していたナチスの現実を知り、少し大人になったとき、イマジナリー・ヒトラーを卒業するのだ。

この例に倣うならば、今作におけるイマジナリー・リチャード3世は主人公の《影(シャドー)》のような存在として置くことができただろう。抑圧され気味な日々を送る彼女の、押し殺している本音を代弁するようなキャラだ。
今作の主人公は割と序盤からすぐ遺骨探しに前のめっていくけれど、たとえばここをもう少し「気にはなるけれど、私なんかにできるはずがない」くらいに引きつつ、リチャード3世が逆に彼女を焚きつけたり煽ったりするような位置関係にして、対話を通して徐々に彼女が人生をハンドリングする意欲を取り戻しつつ目的が重なっていく…みたいにすれば、大きな波が生まれて解決のカタルシスが高まったんじゃあないだろうか。

…などと偉そうなことを凝りもせず供述しておりますけれども(他人事)、わたしはげんきです。アスファルト堀り返せるくらい。