カラン

トーク・トゥ・ハーのカランのレビュー・感想・評価

トーク・トゥ・ハー(2002年製作の映画)
5.0
『失われた時を求めて』を書いたプルーストは、女に対して独特の残酷さと美意識で見ていたのだと、かつてロラン・バルトが言っていた記憶がある。プルーストは男を愛する男なので、男→女の視点ではないし、女→女に対する視点とも違う。

アルモドバールも、プルーストやバルトと同じポジションに立っているのであろうが、女に対して冷たい残酷さではなく、深い同情を示しているのだと思う。

男に女はわからない。なるほどその通りだ。しかしアルモドバールにだけ見える女があるだろう。男→男のポジションから見える女だ。

『アタメ』、『キカ』、『私の生きる肌』、『ボルベール』、女たちへの讃歌をたくさん撮っているが、この『トークトゥハー』も、変態の強姦と無力の泣き虫による女たちに贈る同情の一つなのだと思う。

しかし何故、変態と泣き虫に女への同情を語らせるのか?

まず、アルモドバールには女の幻想に媚びる必要がないからだろう。アルモドバールのポジションからすると、白馬の王子様的な話しをする必要はない。

変態は眠っている女を愛し=強姦、泣いている男は女の身体の外で泣く=自慰。涙は、マルグリットデュラスやマンレイの時代から、精液と愛液のメタファーだ。そう、彼らは女の欲望を適切なタイミングで十分に満たせない、すべての女に対する不能者の代表、つまりそこらの男たちの代表なのだろう。男たちには、目をつぶっている女しか愛せないし、女のいないところで愛していると泣くしかできない。男たちは、だいたい、うまく女を愛せないのだ。

世の中の男たちが愛そうとして愛しきれない女とは何か。それを提示している作品だと思う。
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