レインウォッチャー

の・ようなもののレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

の・ようなもの(1981年製作の映画)
4.0
ちょっと風変わりなタイトルが目を引くけれど、観終わった今では納得できる。『の・ようなもの』、つまり《未満》の映画なのだと。

それはたとえば青春映画《未満》、もしくはラブストーリー《未満》。
内容を説明するとすれば、落語家修行中のマイペースな青年・志ん魚(しんとと / 伊藤克信)を中心とした群像劇コメディ、といえる。ところが、映画は彼をどこか明確なゴールへとは運ばない。

たとえば、彼がこれから一人前(真打)の落語家として大成するのか、他の何者かになるのか。
たとえば、ソープ嬢のエリザベス(秋吉久美子)や落研JKの由美(麻生えりか)(かわいい)との関係に、恋愛の成就や破綻といった結果が伴うのか。

そういった、何か「名前」を付けられることのない時間、全体のお膳立てされた大枠の前に細部だけがあるような時間が切り取られ、その間に周囲の人々の断片的なエピソードが挟まってくる。
そして、すべてはいわば途上にあるまま、物語《未満》のままで映画は終わる。エンドロールの背景に映るのは、終わり時をつかみ損ねた宴会の後のぐだった風景だ。

しかし、だからこそこんなにもリアルで愛らしい。
彼らは誰も、その幸福も・痛みも、声高に叫んだりしない。そもそも、その時々の感情の解像度は各人によって当たり前に違って、伝わっていたり伝わっていなかったりする。彼らはそれを諦めるし、見過ごす。

でも、それはずっと映画の外でわたしたちが繰り返してきたことじゃあないか。ぽてんぽてんと、キャッチされずに隅へ転がっていった言葉たち。夜通し歩いた志ん魚の足の疲れや、エリザベスが捨てるクッションのへたり具合を、わたしたちは知っている。

1981年。わたしにとっては知らない時代(※1)だけれど、明日にでも彼らにひょいと会えそうな気がしている。《未満》であるが故に、彼らの物語は終わらずに続いていると思えるのだ。

最後にテクニカル寄りの話をするけれど、まあこのようにロマンチック/ドラマチックを周到に避けたような映画なので、ともすればただ退屈になりそう。しかし、ストーリーやキャラクターより何より、その新鮮でスリリングともいえる「語り口」によってぐいぐいシンコペーションして観させる作品になっている。

フェイントのジャブを食らわされるようなオープニングから度肝を抜かれるけれど、その後は主に志ん魚サイドと由美サイドの二軸をステップで往復しながら(かつ、間に枝葉を数々挟みながら)進んでいく。
この二つがいつ合流するのか?が興味の持続力になるほか、場面転換に毎度トリッキーなタイミングやエフェクトの工夫があって、粋だ。

その音声を自由に切り貼りしたり被せたりする「遊び」や、全編を通して配されたテーマカラーの赤など、ポップ期のゴダールを骨まで消化して、日本の日常風景に無理なく応用しているように思う。まさかこんなことができたのか、という感銘。

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※1:エリザベスのリッチな暮らしぶりや、タクシーの窓から弟子たちにポンと札を渡す師匠など、根っこがポジティブな空気を感じてみたりする。90年代半ば以降であれば、志ん魚が迎えるラストはもっとじめっとしていたのではなかろうか。ちょっと羨ましい。