久保坂涼

遊星からの物体Xの久保坂涼のレビュー・感想・評価

遊星からの物体X(1982年製作の映画)
5.0
物体X("The Thing" [原題])とは、「宇宙」から来たのではなく、全ての人間一人一人の「心」から来たのではないであろうか。
 その「心」の〈善悪〉によって、人間は「肉体」も「変異」する、という観念である。
 その人間が〈悪〉であれば、突然に「肉体」が「変異」する。醜く恐ろしいまでの姿になる。
 しかし、ほとんどの登場人物が〈悪〉であり、〈肉体〉が「変異」するのである。

 では、いきなりその惨状が始まったのは、何故か?
 それは、一頭の紛れ込んだ〈犬〉である。これは、まさに〈悪魔〉の使いである。基地に入り、人間の〈善悪〉を観る者に問うのである。

 〖あなたは〈善〉ですか、あるいは、〈悪〉ですか?〗

 それは、とてもではないが、人間に判断できない。
 けれども、〈悪魔〉であれば、できる。〈善〉を見い出すと〈悪〉に引き込む。

 そうして、この作品は、一般的に呼ばれる『宇宙からの物体の「性悪説」』つまり、敢えて容易な形で表現するのならば『宇宙人の〈性悪説〉』に則っていない。
 
 これは『宇宙人の〈性善説〉』である。何故なら、人間は〈善〉として誕生するが、成長過程で〈悪〉になるかもしれない。そのとき、人間は〈悪魔〉によって殺生も厭わぬ怪物に「変異」して〈悪〉の化身となる。

 ここである。

 人間は、「心」の深奥から〈善〉である、と証明される。
 つまり、「心」が〈善〉であるからこそ〈悪〉へと引きずり下ろすのが〈悪魔〉である。〈悪魔〉の概念は人間がつくった。それは自らの「心」にある〈悪〉を自覚するからである。
 真実は、犬が〈悪魔〉の使いではない。この〈善悪〉の「審判」の始まりを告げる予兆の宣告者である。

 この作品は、私たちが自らの「心」を見つめるキッカケとなる試金石である。
 
 物語の最後には、二人が生き残る。
 しかし、二人が、あるいは、一人が〈善〉、あるいは、〈善〉はいないのであるかは示されない。
 〈悪〉であれば、人間の姿をした「物体」である。
 
 それは、作品の創作者からの観る者への挑戦である。
 〖人間の〈善〉とは、何ですか?〗

 しかし、創作者は既に答えを示している。
 〈性善説〉――人は生まれながらにして〈善〉である、と。
 けれども、〈性善説〉あるいは〈性悪説〉という、これらの倫理は人間に当てはまるのであろうか。

 ジョン・カーペンターは、私たちに問う。
 〖あなたは、自らの心をみつめますか? いったい、そこに何が見えますか?〗
久保坂涼

久保坂涼