春とヒコーキ土岡哲朗

2001年宇宙の旅の春とヒコーキ土岡哲朗のレビュー・感想・評価

2001年宇宙の旅(1968年製作の映画)
-
世界で一番すごい映画かも知れない。

(2018年のIMAX上映を見ての感想です)

劇場で観て、やっと分かった。家のテレビで見たときはこの映画を全然受け取れていなかったのだと分かった。内容を一回観て知っているからなのもあるが、大画面と音響によって、この映画の真の力が分かった。

HAL9000は、恐ろしい。ポッドの中でハルに聞かれないように話す二人を、目のような赤いランプが遠くから見ているのは、ゾッとする。ハル自身が自分の変化に戸惑っているようにも見えたし、最後の命乞いの血の通った感じもかえって怖かった。猿が進化したとき、道具を使うことを覚えたと同時に、同じ種を殺すというタブーを犯している。メインは、道具を使えることを覚え、月にまで行った、というロジック。だが、その裏に隠れて、進化のときには仲間殺し=淘汰が行われるということもほのめかされていたのだと思う。とすると、ハルによるパイロットたちの殺害は、A.I.から見て「自分に近いが劣っている」人間を、淘汰する動きだったと思う。映画全体は、人類は理解を超えた存在によって導かれているに過ぎない、という宇宙の構造を語っている。人間は、誰かが作ったものなのに、自分なりに勝手に思考している。だから、A.I.だって、人間が作ったもので、自分なりに勝手に思考しておかしくない。ハルとの戦いは、以前は全体と関係ない盛り上げ要素に感じたが、全体のテーマを立証するための入れ子構造的シナリオだった。

まぎれもなくトリップした。
終盤、木星に突入するとき、我々の物理の概念を超えた宇宙を表現するため、いろいろな形の光が数分間映される。あの時間、完全に違う世界にいた。これが普通の不思議映像ではなく、別世界へのトリップだと直感したとき、もう戻って来られなくなるんじゃないかと怖くなった。それでも映像は流れ続け、別世界へ。音響として重低音が鳴り響き、耳だけでなく、振動として胸を直接揺さぶってくるのも拍車をかけていたと思う。音や光の刺激で、脳内で起こっているだけの感覚なのかも知れない。でも、通信機器が本体内で収まらず世界と繋がっているように、自分の脳内に収まらず、宇宙と繋がっているということもあると思う。そう信じるなら、あの時間、肉体は映画館にありながら、脳は違う世界に行っていた。映画館での集団トリップ。合法的に上映していい映画じゃないぞ。そんな体験を我々にさせたあと、映画は大詰め。主人公が木星の謎の空間で、年老いて、スターチャイルドとして抽出され、地球を見ているところで終わる。現実に、恐竜が鳥を生み出すための途中計算式にしか見えないように、現行人類や地球文明も、何かの布石なのかもしれない。その宇宙規模の広い視野で自分の世界をとらえ直す。我々の生命活動は、小さい範囲の常識のために縛られるべきではないとも感じるし、どんな小さいことも万物と繋がっているとも感じる。トリップによって、普段は見えていない世界の仕組みを知ることは、人生のテーマにすべき成長行為だと思う。もしかしたら史上唯一、疑似体験ではなく、本当に観る者を違う世界に連れて行く映画なんじゃないか。