レインウォッチャー

回路のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

回路(2000年製作の映画)
4.0
いきなり当たり前すぎることを書くけれど、「インターネットとはコミュニケーションである」。
いかなるタップ/クリックも、リクエスト(要求)を送ってレスポンス(応答)が返ってくるのを待つ。この本質は対面で行う会話と何ら変わりなくて、たとえ寝室に引き篭もり画面に齧りつこうとも、結局のところわたしたちはその原則から逃れることができない。

だから、端末と回線の向こうには本当に《誰か》がいるのだろうか、という不安は、考え始めると根源的な恐怖になり得る。
たとえばネット以前の電話にしても、耳に聞こえる相手の声はあくまでも波形を変換した合成音声なわけだけれど、これを果たして人の声と呼んで良いのか?そんな発想を手繰り寄せて行けば、やがて対面/非対面、アナログ/デジタル関わらずあらゆるコミュニケーションそのものがもつ空虚さ、薄ら寒さに気付いてしまう。それが、この『回路』で語られる《幽霊》の正体なのではないだろうか。

日常の中で無意識のうちにわたしたちの思考が回避している死角の暗い溝に気付かせて、風景を変質させてしまう…この呪わしい感染/継承の感覚こそ、『CURE』から共通する黒沢清映画の真骨頂だと思う。
時は2000年ということで、ADSL誕生直後。家庭や職場でのPC/インターネット普及が急速に進んだ時代である(※1)。このタイミングを逃さず、かつ単なるシチュエーションのネタに終わらせることなく普遍的なテーマへ還元しているのは流石だ。

また、2000年といえば日本列島は世紀末風邪まっただ中。わたしは、語弊があることを重々承知しながらも「誰も彼も『エヴァ』みたいになってた病気」で説明できると思ってるのだけれど、今作もまたその影響を感じずにはいられない。
どこまでも続く閉塞感、コトが起こる規模の飛躍、思わせぶりな結び。『CURE』から比べるとストーリーもロジックもかなり抽象的になっていて、これが《味》になるか《恥》になるかは世代を選ぶ気もするけれど、20年強が経った今の目で観れば逆に新鮮かもしれない。

今作はとにかくまず物理的に暗くて、画面は常に煤に塗れたアスファルトのような曇天のフィルタに覆われている。そんな中、主演2人(麻生久美子&加藤晴彦)といういずれも陽性のバイブスをもつキャストが、ギャップの面白さと孤独感を同時に強調しているように思う。
人々が次々と回線の先にある異界へと姿を消し、絶望する中、彼らは最後までコミュニケーションを諦めようとしない。たとえ《向こう》に誰かがいなくとも声(リクエスト)を投げ続ける、わたしたちにできることはそれしかないともいえるし、それこそが輪郭を現世に留めるのだともいえるのかも。

しかしコレ、コロナ禍に観なくて本当に良かった。
劇中で無数のディスプレイに映る闇が沈殿した部屋部屋、春江(小雪)が「この人たち本当に生きてるって言えるの!?」と問いかけるあの風景は、外に出られずドアの内側に閉じ込められていたあの期間とダイレクトに重なってしまったことだろう。

あの期間は、インターネット=コミュニケーションに第何次目かの加速が起こった期間でもあったと思う。回線環境が向上し、オンラインミーティングやVR/AR技術の一般化、更にはAI利用へ。
今なお進行形であるその渦中において、『回路』はひとつの予言として再び真価を発揮する作品であるように思う。

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揺れるカーテン、ライトON・OFFマジック。黒沢清節は端々で炸裂し、恐ろしい場面はたくさんあるけれど、マイフェイバリットは図書館のシーンだろうか。背景にいるただの利用者…と思しき人影が、もはや人なのかどうかわからない。
でも、考えてみれば普段から風景に溶け込んでいる通行人(他人)ってNPCのように認識しているし、顔なんていちいち記憶に残していない。振り向いたら居ないかもしれない。いや、居ないならまだしもこっちを見つめてたりして…既に、わたしたちは毎日幽霊に囲まれて暮らしていることを思い知らされる。

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※1:ダイヤルアップ接続やフロッピーディスクといった遺産たちの姿を目にすることもできる。