冒頭のアイザックの語りとマンハッタンの街、ラプソディインブルーの軽快な旋律の組み合わせがあまりに見事で、「すごい!これこそ映画にしか成し得ない体験だ!」ととても興奮したのだが、その後、42歳の主人公が17歳の少女と付き合っていて、かたや一方のヒロインは主人公の親友と不倫関係にあるという、誰がどう観ても最悪すぎるクソ恋愛関係の映画だということに気づき、「せっかく良い映画だと思ったのに...」としょんぼりしてしまった。
...が!その後のウディアレンらしいウィットに富んだ軽やかな会話劇にとにかく魅力され、第一幕の終わり際、アイザックとメリーがマンハッタンの橋梁の下のベンチに腰掛けるシーンの美しさには思わず見惚れてしまった。やっぱダイアンキートンは、都会的なロケーションが本当に似合うなぁ...。
個人的に昨今の過剰な有名人の不倫報道に辟易しきっていたので、今更映画でそんな話見たくねえんだよと思っていたが、なるほどこれはむしろ映画や小説の中で過剰に理想化されたいわゆる「純愛」というジャンルと比較してみれば、むしろこっちの作品の方が本当の人間の性愛の姿を描こうとしているとすら思った。
誰もが悪意を持って誰かを傷つけてるわけではないけれど、小さな身勝手さや不誠実さがやはり誰かを傷つけていて、その傷つけられた誰かも誰かを傷つけていたりするのが恋愛の常というか。作中、裏切られたアイザックは自分を騙した当事者たちを責め、必死に被害者としてのポジションに転がり込もうとしているが、結局アイザックも自分の身勝手な妄執に囚われ人を裏切っているし、そんなアイザックだって、元を辿れば元妻ジルにも裏切られているわけで。こういう誰しもが加害者で、誰しもが被害者に転じる残酷な側面こそ、本当の世界の姿なんだよな...。
元妻ジルの暴露本の内容が途中挿入されるが、ジルはアイザックのことを、「彼はキレやすい自由主義のユダヤ人だった。男尊女卑で自己中心的な人間嫌い。彼は人生に文句を言うだけで何も解決せず、芸術家に憧れているが、必要な犠牲を払わない 死への恐怖を語ることもあったが、悲劇的な言葉の正体はナルシズムだった」とめちゃくちゃにこき下ろしているが、きっとジルから見たアイザックは本当にそんな一面がある人だったんだろうし、というか観客である自分にもアイザックの身勝手さがそう見えてしまうし、交際相手のトイレシーに「君だって大人になりゃあ僕より素敵なボーイフレンドを見つけて幸せになれるし、その方が良いのさ」みたいなことをあたかもトレイシーのことを思いやってるかのような態度で語るが、実際は自分にとって不必要なタイミングでトレイシーを突き放したり、寂しくなったら求めたりしてるだけであって、その末ににメリーに振られると、「なんて自分は不幸なんだ!」と嘆くナルシストで自分勝手な、まさにジルがこき下ろしたような側面がしっかりあるわけである。アイザック自身はそんな自分になかなか気づけていないのだろう。もちろん、ウディアレンはそういったことを意図して本作を作っているんだろうな。どう見たって、この作品はウディアレンの自己言及的な作品に見えてしまうし。それでも作品全体のトーンが明るく、湿っぽさを感じさせないコメディさを維持してるのがやっぱり大きな魅力で。「そんなに深刻にならなくても良いんだよ、人間なんてそんなもんなんだからさ」くらいの軽やかな楽観性が気持ちよかった。
(まあそれにしたって、結局トレイシーが1番まともというか、人間的な無垢さと懐の深さを持っているし、起きてること自体は大学のサークルの泥沼に近いというか笑、もっと地に足つけて恋愛しろよ、とは思ったな笑 どうも描かれてる男女像が村上春樹的な男尊女卑感を感じるのも気になった 都会的なインテリのクソ恋愛という意味でも似てるね)