NO4

フィッシャー・キングのNO4のレビュー・感想・評価

フィッシャー・キング(1991年製作の映画)
3.5
救いを必要とする男と贖罪を求める男の物語。

自分の発言がキッカケとなり銃乱射事件を引き起こした罪の意識から、酒に溺れ堕落した生活を続けるジャック。ある日、精神を病んだ男パリーと出会う。彼と付き合ううちに精神を病むことになったのは銃乱射事件で妻が目の前で殺されたことが原因だと知り、彼を立ち直らせることに奔走する。
それが彼に対する贖罪になると信じて。

ここにめでたく贖罪と救いのギブアンドテイクが成立!

パリーが恋していることを知ったジャックはこの恋を成就させるため必死でサポートすることに。

さて、この辺りで自分は思った。恋が実ればパリーの壊れた心は修復し救われるのだろうか?ましてやそれが贖罪としてジャック自身も立ち直るキッカケとなるものなのか?

罪の意識から一度は自ら死をも選んだジャックにとって、パリーを救うことにすがることで人生をやり直すキッカケを得ようとするのは、なんとも自分勝手な解釈にも思えた。だって、そもそも被害者はパリーだけじゃないし。
案の定、落ちぶれた間、ヒモとして暮らしてきたはずなのに仕事復帰を果たすやいなや彼女を捨てるように家を出るジャック。
身勝手極まりない!やっぱこの男、責任もとってなきゃパリーを幸せにすることで、ちゃっかり自分が立ち直ろうとしているだけなんじゃないの?

物語はフィッシャーキングの伝説を絡め、ファンタジーな側面もちらつく。
さらなる苦境に立たされる二人。そこでジャックは男を見せるべく選択を迫られるのだが…

救いを必要とする男は贖罪を求める男に救われるかもしれないが、贖罪はそれを赦す社会があって初めて罪を償ったと認められるのではないか?

そこで思い至ったのが、行き交う人々が手を取り合いダンスを始めることにより、一瞬にして駅のコンコースが巨大なダンスホールに変化するシーン。
なんの関係性も持たない人々が一瞬でも立ち止まり、少しでも同じ方向を向くことができたなら…心に傷を負い人生に挫折を余儀なくされている人々をもやさしく見守ることができるのではないか?
奇跡のようなあのダンスシーンは、社会はそれほど悲観するものではない。そう訴えているように思えてならない。
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