この映画は1933年版の実に見事なリメイクで、オリジナルへの徹底したリスペクトがなければできない完成度だと思います。
一点、オリジナルと異なるのは「コングがヒロインの愛情を得る」という点なのです。これによりコングは、33年版の「理解されない孤独な怪物」とは真逆に、ヒロインの愛情を受けながら彼女を守って散華する。ヒーローになる時、それは今。そう、今回のコングは見事なヒーローとなりえたのです。
33年版のヒーローはあくまでブルース・キャボット演ずるドリスコル航海士でしたが、今回のヒーローはあきらかにキング・コングです。今回のドリスコル役が線が細い、どこか影が薄い男であることは、意図したことだと思います。
3時間という長さもヒロインのコングへの気持ちを愛情に熟成させるには必要な長さだったのでしょう。
さらにもうひとつ決定的に異なる点がある。それは今回のコングが「巨大ゴリラ」になっているという点なのです。「怪物」というより「巨大ゴリラ」です。そしてこれは「ヒロインの愛情を受ける」「ヒーローになる」ための重要なポイントなのです。
33年版のコングも確かにゴリラ風ではありますが、立ち姿とか所作などはゴリラより人間に近い。というか、原人のイメージに似ています。アップになった時の顔立ちも、ゴリラというよりむしろ故・いかりや長介氏に近い。
つまり33年版ではコングとは「擬人化されたゴリラ」ではなく、「擬猿化された人間」であり「怪物」だったんです。
一方、今回のコングは巨大ゴリラであることが一目瞭然です。それゆえにヒロインの同情や愛情を受けることができた。巨大ゴリラではあってもモフモフした哺乳類の動物。実在のゴリラです。自分に興味を持ってくれている、守ってくれているとなったら可愛く感ずるのではないでしょうか。氷の上でスケートごっこに興じたりもする。
しかし悲しいことに、同じことをしても擬猿化された男だったら気持ち悪いか、怖いだけでしょう。巨大な原人のような、ゴリラみたいな男にかっさらわれたら・・・。33年版で最後まで悲鳴をあげ続けたヒロインの気持ちもよくわかります。
だからこそ33年版では、理解されない怪物のひとりの悲しみの悲劇性が鮮やかに際立ったのだと思います。
もちろん今回の巨大ゴリラに対するヒロインの愛情はペットを可愛がるのと同じような感情かもしれず、白馬の王子様に対する愛とは違うでしょう。しかし、ヒーローとなるにはとにもかくにもまずヒロインに愛されなければならない。
ポイントはここです。
コチトラ人間の男です。巨大ゴリラではない。だからヒロインに愛されてヒーローとなるにはまず白馬の王子様とならなければなりません。愛されるということ、ヒーローになるということはことほどさように困難を極めるのであります。この映画はそれを私にたたきこんでくれた貴重な映画なのです。
追伸1
前半のジャングルでの攻防戦において、ヒロインのドレスはもっと破れたほうがリアルだったと思います。
追伸2
劇伴はすべてオリジナルの今作ですが、ニューヨークでコングが見世物になる時、劇中の楽団が演奏していたのが33年版「キング・コング」のテーマ曲!!
追伸3
昔のテレビアニメの「キングコング」も、76年のジョン・ギラーミン版「キングコング」も、「仲間」としてのコングはすべて巨大ゴリラでした。
「キングコング:髑髏島の巨神」も巨大ゴリラですよね。
非常に異色なのは傑作「キングコング対ゴジラ」(62年)のコングですが、あれは擬猿化された人間でも巨大ゴリラでもない、ただのエテ公です。コング史上、極めて特異な存在です。あれにかっさらわれた浜美枝さんは複雑な気持ちだったろうな。
参考資料
「季刊 映画宝庫 1977新年・創刊号 われらキング・コングを愛す」
責任編集・双葉十三郎
1977年
芳賀書店