MasahideYoshida

ソーシャル・ネットワークのMasahideYoshidaのネタバレレビュー・内容・結末

ソーシャル・ネットワーク(2010年製作の映画)
3.5

このレビューはネタバレを含みます

2010年公開
監督:デヴィッド・フィンチャー
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Facebook創業者のマーク・ザッカーバーグの、設立から会員100万人突破までの栄光と暗部を描いたお話。


 「アイデアの価値」「ソーシャルということの本質」「譲れないものをもつ強さ」が感想キーワード。


 「アイデアの価値」の不確かさがひとつ、強く感じたこと。概念を着想した人、実際にプログラムをおこした人、資金の融通をしたり出資した人…。アイデアとは、誰のものなのか。その不確かさが多くの衝突と権利の主張を生むわけですが。物々効果から貨幣経済、そして情報価値社会と変遷してきた人類の歴史の中で、今が一番、「アイデアという無形の資産への価値」に注目が集まり、そして難しい時代なんだと思う。ザッカーバーグと彼の周りを取り巻く人間との不和が、それを象徴していると思います。ナップスターを立ち上げたことで、「音楽」という無形アイデア資産の市場の崩壊の引き金を引いたショーン・パーカーがfacebookに参画しているのが、なんだか皮肉というか象徴的というか。いずれにしても、「形にできる」ことの強さも同時に感じたかな。ザッカーバーグはそこがプログラミングの世界においてずば抜けていた。どんなに構想しようとも融資しようとも、やっぱり作れる人は強い。オタクというかスペシャリストというか、とびぬけた具現化スキルって、最強だなあというのは改めて感じました。

 「ソーシャルということの本質」がもう一つ。本作ではザッカーバーグをあくまでも客観で描いているように感じます。彼の心の声を過剰に盛り込まず、どちらかというと彼を取り巻く多くの人物の目にどのような人物としてザッカーバーグがとらえられているか、そこにマーク・ザッカーバーグの描写を負わせている。”ソーシャル”ということの本質を、その演出で表現していると感じるわけ。ある人間が社会において何者なのか、それは他人との関係性においてのみ定められる。もっと簡単に言うと、「他人が自分に対して思う”自分像”」がすべてであり、それこそ事実だと。ザッカーバーグはソーシャルネットワーキングサービスを立ち上げながらも、自身もそのソーシャルの中でしか生きることができないということに、数々の訴訟やラストシーンの弁護士との会話を経て遅れて気付く。元カノにフレンド申請をして更新キーを押し続けながらそんなことを考えていたんじゃないかな。だからこそ、他人がザッカーバーグという人間をどのようにとらえているか丁寧に描写することによって、間接的に彼の表現し、それこそがソーシャルの本質だと言いたかったんだろう。人が人のことをどう思うか、その関係値によって社会が形成されているということを見れているかどうかは大事だなあなんて自分に置き換えて思っていた。ナップスターもFacebookも、設立の動機は下心だったという描写が、どんなにサービスが新しかろうがその根底には人間の普遍的な、他者に対する気持ち、思うことが流れている。国境越えて5億人に利用されているってことが、いかに普遍的に人が求める要素を満たしているかを物語っていると思うん。


 「譲れないものをもつ強さ」も最後に感じたことだね。苦渋の決断を迫られたときに一貫した選択基準を持っているザッカーバーグ。「フェイスブックは僕の命だ」と言い切れる彼の姿勢に、彼の凄みが象徴されている。自分の大切なことが何なのかが明確な人間は、決断も早く、情にほだされず、どんどんとまい進していく。「譲れないもの」ってでもだれでも持っているわけじゃないと思うんですよ。あるいは持っているけど無自覚である人。別にビジネスにおける大成功じゃなくてもいいんですよ。のんびり暮らすというライフスタイルが譲れない人だっているでしょう。要するに、いかにぶれないかってことなんだと思うんだけど。ザッカーバーグは、そこがとてつもなく明確だった。だから他のところで他人にどう言われようが、いくら負けようが、別に本心は気にしてなかったんだろうね。これは出張中にカリー番長と話したときも思ったこととつながる。「好きで好きでしょうがなくて、すべてを投げうってもこれだけは譲れないというものがある人とない人がいる」。別に、持ってなくてもいいとは思うけど、この映画におけるザッカーバーグの本質は自分はそこだと思った。

2011年1月16日