変わるもの、変わらないもの
映画の技術発展に伴って美しさの表現手法は様変わりしたことでしょう。
特にサイレントからトーキー、
モノクロからカラーへの変換は大変な革新だったに違いありません。
音と色が持つ美しさが、
画面の構図に説得力を与える。
映画というものが遷移することで獲得していった能力だと思います。
その能力が遺憾なく発揮されていたこの映画。
1951年のサイゴン。
東南アジアのじっとりとした暑さが、
汗ばんだ首筋から伝わってくるようでした。
富豪の元で奉公人として働く少女の成長を詩的な映像美で淡々と描き出します。
絵で語りかける感じが、
D·W·グリフィスの『散りゆく花』のよう。
でも、リリアン・ギッシュのように現実離れした美しいヒロインは登場しません。
素朴で健気な少女が今回の主人公。
少女の登場シーン。
二つのなが回しが繋ぎ合わされたオープニング。
少し怪しげな夜の感じがソロリソロリと歩く少女の歩調と合わさって、
アジアっぽい民族的な音楽の調子と絶妙に絡み合います。
その雰囲気がまるでおとぎ話のようで、うっとりと魅了されてしまいました。
この映画。
スタジオでセットを組んで撮られたんだとか。
異国情緒に溢れたそのセットには、
まるでサイゴンのじっとりとした空気が漂っているかのようでした。
こんな空気感の中に色とりどりの音が響き合います。
パパイヤを洗う水の音や階段がきしむ音、虫の羽音や鳥の声、食器が重なりあう音、炒め物の油がはねる音···
どの音も耳に心地がよくて、
ベトナム語の柔らかな耳当たりと程よく混ざり合っていました。
また、澄んだ色合いが画面全体を支配し、整然とした構図と絶妙なカメラワークの効果を存分に高めている。
構図の効果に音と色の表現力。
本当に素晴らしかったです。
さて、この映画で一番興味深いのがその構成。
二部構成でその雰囲気がガラリと変わります。
前半での少女は子供らしいあどけなさがとても可愛らしく、
後半ではそんな少女が凛とした女性に成長している。
ただ、彼女が成長し変化をしても変わらないものがある。
割れたパパイヤから出てくるぷっくりとした種の白さに感動する彼女の素直な感性は、彼女の成熟とは何の関係もないんです。
「パパイヤは青い時は野菜と見なされ、熟した時に初めて果物となる。」
監督トラン・アン・ユンはこう語ります。
成長しても変わることのない彼女の感性って、熟したパパイヤの種のよう。
種に感動するシーンは、そんな彼女の感性と種の白さが共鳴し合っていたんじゃないのかな。
すみません、深読みが過ぎました。
でもこれが僕の映画の楽しみかた。