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祇園囃子のysmのネタバレレビュー・内容・結末

祇園囃子(1953年製作の映画)
4.0

このレビューはネタバレを含みます

一から多への同一性の解放というものがあるが、しかしその多がどうしても一でしかない身体的な同一性の苦しみが溝口の映画なんだと思う。決して身体は「一」ではないが、当の身体は一つしかないということ。『近松物語』も『山椒大夫』も人物たちは、「一」ではない身体が一つしかないこと、別の場に同時に存在できないことに耐えられないから逃げる。だから逃げることは常に既に失われた半身へと向かうことである。この作品における身売りもそう。身売りとは「身体だけ」を与えることだが、この映画は「身体だけを与えること」など出来ないということを描いている。「身体」はそれ自体「多」を纏めるところの「一」であるから。そして姉妹もまた「多」を纏めるところの「一」という関係性でもある。そして「多様な一」であることの身体性は金銭の本質的な等価性と正面から対立する。「多」であることは、身体的な「一」であることによって利用されてしまう。金銭上の人質になった妹は姉の身体と等価となり、姉はこれに屈服する。この取引が可能なのもそれぞれの身体そのものは「一」であるからだ。この中では、金や贈与品のからくりを「嘘」と告発しても、「本当」の世界という「別の場所」は初めからそれの反映でしかないことに気づかずにはいられない。そもそも襲われる以前の若尾文子には世界の「真偽」の区別すらなかったようにも思える。銀座に舞妓の格好で行こうとするのだから。溝口の映画はこの分割そのものを描く。若尾文子は泣き顔に仕方なく化粧をしてありもしなかった「本当」を「嘘」で飾る。まるではなから感情の真偽に固執せず、金だけを求める『赤線地帯』の若尾文子を予言しているかのように。フェリー二の『カビリアの夜』は「嘘」に裏切られてもあくまでも「本当」の世界を希求する売春婦の映画であるが、溝口のそれとは、「嘘」を「嘘」として認める売春婦である。でもそれは諦念とも処世術とも違う何か。
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