Jeffrey

惑星ソラリスのJeffreyのレビュー・感想・評価

惑星ソラリス(1972年製作の映画)
4.0
‪「惑星ソラリス」‬

本作は1972年にアンドレイ・タルコフスキーがソビエト映画として監督したスタニスラフ・レムの原作"ソラリスの陽のもとに"の完全映画化で、この度BDにて久々に鑑賞したが素晴らしい。この作品では皆もご存知の通り、映画には原作にない、クリスがソラリスに飛行する前の地上のプロローグがあり、そこに登場する地球の未来都市は東京のロケで撮影された、確か72年夏のことだと思うが、タルコフスキー監督はワジーム・ユーソフ撮影監督がらとロケのために来日している。テーマミュージックの演奏や効果音にシンセサイザーが使用されているのもこの映画の話題の1つで、72年カンヌ国際映画祭審査員特別賞などを受賞した作品である。2002年にはスティーブン・ソダーバーグ監督がレムの原作のソラリスをリメイクしていて、実際中身を見るとタルコフスキーの要素がたくさんあり、彼の作品を想像して作られていると感じているが、エンドクレジットにはタルコフスキーの名前はなくレムの記載だけである。


それにしてもこのSF小説はかなり異質であり、従来のSF小説とはまるっきり違う。タルコフスキーの映画化は、もはやSFと言う言葉さえ妥当ではないほど、これまでのSF映画とは別の世界である。謎の惑星ソラリスを観察し続ける宇宙ステーション、その内部が前編の大半を占めるなんて風変わりであるしな、中々ないだろう。さらに超現代的な電子機器に取り巻かれているが、その回廊には壊れかかった機器が放置され、切れたコードが渦巻いている。その荒涼としたイメージは、そのままタルコフスキーの現代に抱く心象風景であろう。それと図書室内部の木造のインテリア、絵画や彫像に見られる人類文化への憧憬、あるいははじめと終わりに現れる田舎の父の家、その優しく、懐かしい感触の映像、その対比、それまでのタルコフスキー作品に見られた自由でのびのびした映像の展開は、閉鎖された世界での哲学的な思索のイメージに席を譲っているかのようだ。


人間の深層心理に潜む潜在意識を具象化し、物質化させる能力を持つソラリス。その機能自体が、意識は物質の所産であり、現実の反映であるとする唯物論とは、反対の極に立つ観念である。原作者のレムは、宇宙では未知なものが我々を待っている。宇宙は銀河系の規模にまで拡大された地球ではない。それは質的に新しいものであると、もし、彼らの文明と我々の文明とは全然違った道を歩んでいるとすれば、われわれは彼らとどうやって接触したらよいか、映画はそうした未知のものと遭遇した人間の内面に光を当て、哲学的、心理的な問題を投げかけている。黒澤明とタルコフスキーは既に顔見知りで、かねてから会話などもしており、黒澤明が評価し、この作品を、当時のSFファンは酷評してしまっていたようだが、後にようやく彼らにも彼のSF映画が理解されていったようだが、正直タルコフスキーの本作は、そんじょそこらのSFファンの人に理解されず酷評された方のがありがたいような気もしなくはない。それでこそタルコフスキー流のSF映画の確率が目立つって言うもんだ。さて前置きはこの辺にして物語を説明していきたいと思う。


さて、物語は21世紀、世界の科学者たちの注意は宇宙の彼方の未知の惑星ソラリスに向けられている。この謎の惑星には生物はいないが、表面がプラズマ状の海に覆われており、その上、海は理性を持つ有機体と推測される。しかしこれと接触しようとする試みはいずれも失敗に終わっていた。池のある広い庭に面して木造のクリス・ケルヴィンの家がある。心理学者クリスは明日にはソラリスに飛び、原因不明の混乱に陥っていると言う軌道ステーションの3人の科学者と会わねばならない。クリスが地球に別れを惜しむかの様に庭の茂みに佇み、静かに出発の時を待っていた。クリスのこの宇宙旅行の重要な使命は、真実を認識すること、海の秘密を明かす事、そしてその海と直接接触すること、さらには軌道ステーションでのこうした研究活動を今後も続けるべきかどうかを決定することにあった。

だが、軌道ステーションについてクリスがそこに見たものは、張り詰めた静寂と恐ろしいまでの荒廃の兆しだった。物理学者ギバリャンは既に原因不明の自殺を遂げていた。残された2人…サイバネティック学者スナウトと天体生物学者サルトリウスも同様に何か得体の知れないものに苦しめられている、クリスの不安と疑惑は大きくなった。しかもクリスの前に既に20年前に自殺した妻ハリーが現れたのである。妻の自殺に後悔の思いを抱いていたクリスは、この突然のハリーの出現に衝撃を受ける。一度はハリーをロケットに閉じ込め、ステーションから発射してしまうが、ハリーのコピーは再び現れる。そのハリーはクリスに拒絶されるとおのが身を傷つけたり、液体酸素を飲んで我が身を滅ぼそうとしたりするが何度でも再生する。

これはソラリスの海が地球人の脳髄を寝ている間に探って、人間の記憶を引き出し、それを実体化しているのだ。スナウトは海が送ってよこしたそうした客に圧倒されて絶望的になっており、サルトリウスは冷徹な科学者らしく客を実験材料として扱っている。だがクリスはハリーと心を通じ合い、前にも増して愛を感じるようになっていた。クリスは科学者として深い苦悩に襲われる。一方、3人の科学者たちはついに、クリスの昼間の混在意識をX線にして海に放射することに成功した。海は自分に向けられた最初のX線を受け止めた。海の表面は刻々と変わり始めた。ソラリスの波立つ海に島が浮かぶ。静かな池、緑の草原、そして懐かしい父の家をそこにクリスは見た…とがっつり説明するとこんな感じで、海と雲の捉え方が美しく虜になる映像表現と宇宙ステーションの構造、長回し、音楽感覚、東京首都高速道路の撮影のスタイリッシュさに青基調な白黒映像が印象的な作品で、レムの原作を無視してタルコフスキーが喧嘩した話は有名だが、ここまで独特な世界観を表現できるのはやはり彼だけだろう。

でも今思うと、「惑星ソラリス」は当時公開された時は今で言う単館劇場の岩波ホールでの初上映だったが、2時間45分と言う長尺のSF映画が大画面で流れなかったと言うのは、この作品に対しての難解さ、あまりに鈍く、波瀾に富んだストーリーでもないこの作品を流すのが困難だったのかなと思ってしまう…。映画自体は確かにテンポが非常に鈍く、時間も長いため退屈の極みだと思う。ただ一つ一つのシーンが非常に丁寧に描写されているのはアートフィルムやシネフィルにとってはすこぶる嬉しいことだと思う。だが当時のソビエト映画(今で言うロシア映画)の一般的なものは大体そういうものだ。本作は、というかタルコフスキーは、アメリカ志向が様々な形であるなと。この作品に現れている。キューブリックの「2001年宇宙の旅」「ソイレント・グリーン」など色々と思い出してしまう。この作品を政治的に読み取れることもできるかもしれないし、3人の科学者は、地球の祖国を離れて、宇宙にとどまっていると言う事は亡命を意味しているので、ソビエトの反体制映画作家と知られる彼にとっては、そういったメタファーが入っているのではないかと思うのである。

この映画は、宇宙の神秘を描いた映画と言うよりかは、明らかに、人間性の神秘をこそ描いた映画であると佐藤忠男氏が言うように、その意味で、息を飲むほどその美しさに感銘した場面がいくつもあった。液体酸素を飲んで口元が焼けただれて死相を現わしてぶっ倒れたハリーが、クリスの必死に見守る愛と苦悩の視線の中で徐々にその傷が癒えていって生命が蘇る場面などは印象的である。この映画どこかしら日本の怪談映画っぽく思ったのは私だけだろうか。無重力状態の中で抱擁するシークエンスの美しさはたまらなく印象的であるし、宇宙船のキャビンの中もフレーム内で見ると圧倒される構造になっている。科学時代の今日、人々は次第に、幽霊などを信じず、恐れもしなくなってくるが、この映画では今日、科学時代となっても人間は自らの両親の具体物を求めることをやめないと言わんばかりである。

この作品の面白いところは、共産主義の国ソビエトから、どんなに科学が発達しようとついに人間にとっての最大の問題は自殺した妻への良心の呵責と言うようなことである、と言うような作品が送られてきたことがなんとも興味深い。もちろん日本を含め、西側諸国ではありふれたテーマの1つだと思うが、政治的な関係で映画を作ってきたソビエトだからこそ、あえてその中で異色のこの作品を作った時、あまりにも思い詰めたような念の入れ方と、そこからくる溢れるような張り詰めた美しさがあるのかもしれない。さて、ここからこの作品の印象的な場面を紹介していきたいと思う。まず、冒頭の3分間はスタッフたちの紹介で始まり、ファースト・ショットは川に流れる藻の描写で始まるがこれが圧倒的に綺麗なのである。

そして植物の間を主人公の男が歩き、シンボリックに生えている樹の横を渡り、池がある一軒家(ログハウス的な)が写し出されるのだが池に反射する空だったり小鳥のさえずりなど自然を大いに堪能できる冒頭であった。 そっからスーツを着た男たちがたくさん現れて難しい会話をし始めるから、冒頭の差と中盤と終盤ではそれぞれに異なり非常に面白い仕組みになっている。とりわけモノクロームの東京首都高が写し出される、漢字やひらがなで書かれている車などを目にすると非常に面白く感じる。しかも首都高から写し出される都会の看板にカタカナでコロナって言うのが写っていて受けた。高度経済成長期に達していた日本がバブル時代突入する時代だったため、すごい栄えていたんだほうなと…今と違って。でも、今考えてみるとタルコフスキーのような神的存在のソ連を代表する監督が日本で撮影していると思うとすごいなと思うよなぁ。


余談だが、1971年に来日したアンドレイ・タルコフスキー監督と黒澤明は一緒に写真を撮っており(その写真を見ると圧倒的に背丈が小さく、黒澤明が身長大きく見えるのだが、平均身長が日本人とほぼ変わらないような、鼻の下にヒゲを生やしていて、案外実直そうな人だなと感じるとともに、ジーパンを履いているのを見ると、共産主義が西側諸国(アメリカ)のジーンズを履いた姿で日本に密かに来日して撮影ロケーションを見たと言う話を聞くと何とも言えない気持ちになる)、黒澤がロシアのモス・フィルムまで行って、タルコフスキーと会って、当時「惑星ソラリス」の撮影を行っていたロケ地に行って、色々と質問したりセットを見たりしたそうで、「戦争と平和」の作品以上に制作費がかかっており、日本金にして約6億円と言うことにたまげたと言うエピソードがある。

それから東京の赤坂のあるビルのてっぺんにカメラを据えて、高速道路の上を、自動車が走っているシーンを、かなり粘って撮影したのが本編にあるのだが、元は万博の施設を撮ろうと思っていたのだが、跡地に行ってみたらだいぶイメージが違って中止したそうだ。タルコフスキーは、東京にロケーションした理由の1つに、日本のモダンな建築物が、アメリカよりもメキシコよりも、新しいからですと答えていた。もちろん、奈良や京都といった、古い日本も素晴らしいと思うが、新しい都市である東京は、私の映画にぴったりだとインタビューに答えている。建築において日本は最先端だとかなり絶賛していたようだが、大阪万博で本来撮るべきだったのに、なかなか許可が下りず、実際に来日した際には既に閉会していて残念なことになったが、日本と言うのはかなり撮影許可を取るのが難しい。それは多くの外国の監督が日本に来て日本で撮影したときに必ず出くわす困難の1つである。

そして日本に実際にきて感じたのは、日本の将来に対する可能性と言うものが、驚くべき大きなものだ、ということだともつくづく実感したように言っていた。もっとその時のインタビューのことを話すと、ヌーベルバーグの映画で、ゴダールやトリュフォーの作品はあまり好きではなく、アメリカ映画については、アメリカ人として民族的な優れた映画を作るジョン・フォードが好きだがその他はいないと言っていた。

ちなみに日本映画については、やはり黒澤明の作品を見て、尊敬しており、私たちの先生のような人ですとまで言っていた。ソビエトでも黒澤明は、偉大な人として評価されているらしく、特に「白痴」を見たときには、三船敏郎が私たちロシア人以上に、ロシア人なのに驚きましたと発言していた。黒澤監督の映画は、私たちに、東洋とは一体何であるかについて理解させてくれるところが好みらしい。黒澤作品以外の日本映画について言えば、溝口健二の「雨月物語」の驚くべきカメラワークや、脳の様式を使った表現の素晴らしさが、印象に残っているとも言っていた。フランス映画、アメリカ映画、日本映画についての印象が、次々に一気に吹き出してきたインタビューだったんだろうなと勝手ながらに思う。長々とレビューしてきたが、少し調べたらソ連時代のSF映画って結構あった。しかもそのほとんどのタイトルを見たがほぼ見たことないものばかりだった。まだ未見の方がオススメである。
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