SatoshiFujiwara

FAKEのSatoshiFujiwaraのネタバレレビュー・内容・結末

FAKE(2016年製作の映画)
3.7

このレビューはネタバレを含みます

映画の中で、佐村河内はゴーストライター事件が発覚した後の自身に関する番組をよく見る。新垣隆の出ている雑誌やテレビを律儀に見る。普通に考えればそんなものはいまさら見たくもないだろうに、しかし森達也がけしかけた可能性がないわけじゃない。

中盤に佐村河内の両親が佐村河内夫妻のマンションに来る。森達也が父親に近況はいくらかはましになりましたか、などと尋ねるシーンで、画面左側にいる佐村河内は隣にいる父親の方を見ていない。かと言って向かい側にいる(としての話だが)佐村河内の妻の手話を見ているようにも見えず、むろん口を読んでいる風にも見えない。しかし、佐村河内は父親の話にしばしば頷き(そのように見える。感音性難聴で場合によって聞こえることは聞こえるとのことだが、父親の声は聞き取りやすいとは言えず滑舌も決して良くはない)、もう止めよう、と言ってカメラを制止する。

佐村河内のマンションに海外からの取材者。いきなりの「そもそもなんでこんなことをして騙そうとしたのか?」との質問に苦笑して一瞬たじろぎながら「いきなり核心に来ましたね…」と佐村河内。しかしそこで編集されており次の質問に移行している。何をどう答えたのかは画面に映らない。または答えたのか、答えていないのか。普通なら観客はその答えを聞きたいだろうが、敢えてカットしているんだろう。なぜか?

妻の「無償の愛」についてのシーンはいかにも感動的であり、あのシーンには泣かされすらするが、さてどうなのか。どうにもうさんくさい。根拠はないが。しかし、うさんくささを否定する根拠もまた、ない。

喧伝されている映画の結末。あれに「よりフィクション寄り」に踏み込んだ「演出」がなかった、と単に見ている観客に言い切れる理由はない(町山智浩は「ヤラセ」と言い切った笑)。

まだあるが、要はすべてが宙吊りになっているのだ。森達也はドキュメンタリーの持つ無自覚な政治性や欺瞞性を、清濁併せ呑んだ佐村河内守という「格好の」素材を得たことにより嬉々として暴きたてているように見える。いわゆる「ドキュメンタリー」なんぞ森達也は信じちゃいない。真実か真実じゃないか、なんぞどうでもよいのだ。言い方を変えれば、いくらかの真実といくらかの嘘が不可分に混合されている。

佐村河内夫妻と森達也。とあるシーンで「信じる/信じない」とのやり取りがあるが、それはそのまま観客に対する問いでもあろう。唯一、猫だけは全てお見通しなのか(観て下さい)。

※そこそこ真面目なレビューを書きましたが、映画自体は相当笑えるシーンがしこたま出て来ます。1度派手に吹きました。お笑い映画としてもおすすめの作品です(と、普通なら【笑】とでも付けそうなこの文章に「付けない」だけで読者は書き手に何らかの意図があるか否かに関わらずある種の企みを感じてしまうでしょう。つまりドキュメンタリーもそういうことなんです)。
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