OASIS

FAKEのOASISのネタバレレビュー・内容・結末

FAKE(2016年製作の映画)
4.4

このレビューはネタバレを含みます

2014年に起きたゴーストライター騒動で注目を集めた佐村河内守を主役に据えたドキュメンタリー。
監督はオウム真理教を題材にした「A」「A2」等の森達也。

真実と嘘の狭間に身を隠す真相が、ヴェールを脱ぎ姿を表す瞬間に手薬練引く。
そもそもドキュメンタリー自体に虚実を曖昧にする作為的なものが含まれている訳で。
観察者と対象者が見せる虚々実々の戦い。
何重にも重なり生まれる真偽の波。
信頼を巧みにスイッチし弄ぶ神々の遊びの如き傑作だった。

聴覚に障害を抱えた作曲家として、音楽家の新垣隆と18年間に渡って共同制作を行っていた佐村河内氏だったが、実は新垣氏がゴーストライターを務めていたことや佐村河内氏の耳が聞こえているということを暴露した為騒動に発展。
佐村河内氏は一連の騒動について謝罪したものの、新垣氏を訴える方向で話を進めているが氏とは距離を保ったままである。
本作は、騒動から9ヶ月後、事態が一旦収まり膠着状態となった佐村河内氏の自宅で森達也監督が取材を敢行するという内容。
佐村河内氏と妻、そして森監督の三人だけの密室で、徐々に炙り出されて騒動の虚と実。
一連の騒動を放映しているTVを夫婦で真剣に眺める光景。
佐村河内氏はその画面を見ながら何を思い、妻も何を考えているのか。
無言の重圧が室内を包む。

「怒り」ではなく「悲しみ」を伝えて欲しいと監督は言う。
科学的な判定により感音性難聴と判断されたが、その結果を大々的に配布したにも関わらずマスコミは報道しなかったと佐村河内氏は非難する。
一連の騒動について深く興味を持った訳でも詳しく調べた訳でもないが、確かにニュース等で取り沙汰されている問題については一貫して佐村河内氏に責任があるというような偏向的報道がなされていたように感じていた。
一方で、新垣氏と言えばその暴露っぷりがウケてバラエティ番組に引っ張りだこになっていたりと、随分はっきりと光と影が分かれているように思える。
「自分はこんなに苦しんでいるのに、普通の人だと思われているのが悔しい」と佐村河内氏は語る。
その苦しみは見せかけか、それとも心の奥底からの叫びなのか。
ベランダで煙草を吸ったり、ご飯の前に豆乳を飲んでお腹いっぱいになるシーン等はその風貌に似つかわしくないお茶目さで場内からもクスクスと笑いが漏れ聞こえて来た。

ある日、フジテレビのプロデューサーらから特番への出演オファーが来る。
「番組内でネタにしてイジる訳じゃなく佐村河内氏の未来の為に...」と交渉して来るが、氏はそれを拒否する。
佐村河内氏が出演を断ったバラエティ番組では、後に新垣氏がゲストに呼ばれ芸人や芸能人達にイジられながら笑いを提供していた。
「番組の製作者には想いや信念なんて無く、出て来た人を使っていかに面白くするかしか考えていない」という森監督の目線は流石で、もしもあの場所に佐村河内氏が立っていたならどんな悲劇が待ち受けていたのだろうと寒気がして来る。
新垣氏も悪気があってあちこちの番組に出演している訳ではないはずだが、それにしてもファッション雑誌のグラビアやら芸能人に壁ドンしたりやら仕事の選ばなさが目立つ。
新垣氏が出演している番組を呆れか憐れみか判断のつかない表情で眺める佐村河内氏を只管写したり、新垣氏のグラビアを所々挟んで来たりと他意がありそうな撮り方や編集が印象的であった。

また別のある日、アメリカのオピニオン誌が取材に訪れる。
佐村河内氏が新垣氏にどのような方法で自分の中に湧いたメロディを伝えてイメージ通りに曲にしていたかを問われると、曲作りに使用していた紙を見せて説明を始めるが、その紙に書かれているものがどうやったら曲の形になるのが全く想像出来なかった。
これまでの歴史の中で時代が変わる毎に音楽の性質も形状も変化して行ったというような事を事細かに書いてはいるが、歴史の勉強として音楽が好きなのだなという事は伝わって来たとしても、それが音楽に結び付いて行くかは疑問である。
記者たちもそこの部分を深く突っ込んで来るのだが、佐村河内氏の中には彼なりの哲学があってそれがイコール音楽を生み出しているという事を言いたいのにどうして分かってくれないのかという所だろう。
必死になって分かろうとするものの、素人目には何が何だかであるが、果たして新垣氏はその真の意味を理解した上で曲を作っていたのだろうか?と怪しんでしまうのだった。

正に今という瞬間「作曲しませんか?」と佐村河内氏に向かって曲作りを提案する森監督。
満を持した感のあるその提案に、当初から最終目的がそこに設置され誘導されているかの様な節があるのが作為的な部分を最も感じる所であった。
一度は手を触れる事を辞めたシンセサイザーに再び向き合い、曲作りに専念する佐村河内氏とそれを見守る妻。
妻の愛を励みに再起に奮闘する姿が感動的なラストではあるが「やろうと思えば作曲出来るじゃん」という突っ込みは野暮だろうか。
監督はそこに深く踏み込んでは行かないので、予定通りに事が運びしめしめと思っているか奇跡が起きた事に感動して言葉が出て来ないのかの判断は付かない。
その事実の真偽云々や監督の胸の内すらも観客に委ねられているのだと感じた。
佐村河内氏を庇うでも無く、新垣氏に敵対心を剥き出しにするでも無く、そして暴露記事を書いた文春記者の神山氏を強く糾弾する訳でも無い。
そんな曖昧な立ち位置だからこそ含まれるどちらにも取れるメッセージ。

「信じるなら全部を信じたい」と語る佐村河内氏は、本作への協力を通じて森監督に絶大な信頼を寄せている様に思う。
ドキュメンタリーというものの面白さは、対象者と観察者との信頼関係に大きく左右されるものだと思うが、そうなると本作はその性質を理解した上で計算されたいやらしさを持って作られているかのようであった。
信頼関係を十分に築いたと思わせ、懐に入り込んだ瞬間に牙を剥く。
「何か隠してる事無いですか?」と、あくまでドキュメンタリズムを追求する姿勢に冷徹さを感じつつも、感動的な場面に絆されていつの間にか真実が見えなくなってしまっていた横っ面を引っ叩かれたような気分になる作品だった。

それにしても「牡蠣工場」の想田和弘監督といい、本作の森達也監督といい、ドキュメンタリー監督には猫好きが多いのだろうかと思うほど異常な数の猫のカットが挟まれていた。
故に猫好きにとっても神傑作である。
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