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宵待草のharunomaのレビュー・感想・評価

宵待草(1974年製作の映画)
4.4
ヨハンヨハンソンを聴いていたら立ち止まり帰りたくなった。瓦礫が道に積まれる夜の微々たる東京の小さな被災、台風。
ヨハンソンの音楽にあらかじめ混ざり込んでくる避難警報の声が、もはや雨に濡れた街路の闇に、それが外から来るのか此処から来るのか判別すらできない。
畢竟、帰る場所もなく数年ぶりにヴェーラへ
設計した北山恒はかつて、東京や神奈川の入り乱れた無計の景色を見て「いくじなしの風景」と言ったが、キノハウスなる張りぼての小屋は立地も、かつての桜丘町とは何か消え去っていた。闇がノイズが、埋もれる身体に、宇宙船や洞窟の気配が坂道の途中、坂を上るあの感触を。それでもコンクリートの館に35mmは、ときにふいに、なんとはなしに上映はされる。日本の教会のミサと一体何が違うというのだ。内省とノイズをくれ。比べるべくもないけど『もどり川』の方が好きかな

バカみたいに人間がおもしろい。相米、黒沢、青山まで続いていたこの感触を懐かしく思う。仲間だった追手のおっさんが終始笑顔で笑ってしまうほどに粋な大人たちアナーキストたちの壮大なピクニックがいきいきと繰り広げられる。幼稚な欲望はきらめき、死も愛も、身体も金のかみきれも目の前を通り過ぎる。風とともにあらゆる人はまざり合い愛し合い悲しみを伝える。
あらゆる場所にあらゆる歌がある、船頭小唄。あるときには歌うこと見つめること触れることだけでコミュニケーションの交換はなされる。アフレコバンザイ。横移動の、手持ちの原初的な楽天性が息をしている。細野晴臣の音楽もあり、冒頭、短刀を持って交番に襲撃しに行き、憲兵に追いかけられ、ワンカットで路面電車に飛び乗る有様も、おとこたちのじゃれあいの幸福感しかなく、遊びの時間は続く。
気球、機関車、馬、自動車。七転八倒するあり方も、でんぐり返り、「いいじゃない、親なんてどうでもいいじゃない」の少女の反復のつぶやきも泣けるが、気球の後のシーン、かつての仲間を斬った男、歩き出す彼の背に寄っ掛かり、宙に浮いたまま支えられる高橋洋子、彼女の身体のおもしろさは忘れがたい。これはなんなのか。男のおんぶではあるが、足はもう一人の男に支えられている姿勢。女の身体を、歩いていく男に思いっきり、あずけること、不安定に自力の支点なく少し浮いている体 → 「もどり川」の病院へ荷車で妻を運ぶとき、ショーケンに身体をあずける女 → 「濡れた唇」おんぶしての2人組×2の競争でも、そんな体があった。あの不安定な、後ろからもう一人が何かが支える、おぶられる。むしろ相手におぶり被さる女。慰めでも、驚きでも、愛でもなく、男の上に自分の体を重ねる、体重を乗っける。なぜだろう。これなのだ。映画が所詮心理なるものを体で表現するというのなら、ドライヤーではなくあり得るのなら、それは神代のこうした瞬間だ。重要な愛のじゃれない。睦言、こと、ことを始めること。どこまで行っても零度のような大自然ばかりだ。成層圏の映画。エリ・エリ・レマ・サバクタニ。断絶。かつてそんな映画があった。日本春歌考。どこまでも意味に囚われることのない人の身体。それを人は、旅と呼ぶ。自然の中の重要なツーショットは望遠で撮られ、ズームアウトする。こんな風景だと。男女、3人の逃避行は成層圏の映画を生成しながら、山狩りの美しい夜の松明が遊びではない現実を海へと切り返し、海鳥が飛び立つ如く哀しみを纏い始める。しかしどうだろう。終わりなき旅の終わりは悲しいが、吹きっさらしの小屋に波が立ち、土を一緒に被り抱きしめ合うことはできる。線路、砂浜、夕陽の崖の土の上で、少女のでんぐり返りは永遠の歌のように、彼女の体は大地を動かしている。ふいに口にされる「満洲」という地。ああ70年代に満洲?いやこれは大正の設定だったと思い直し、それにしても、『俠骨一代』の船の上、満洲へ向かう藤純子(牛乳壜一気飲み!)あるいは『東京暮色』のラスト仏壇の前で中国語で何か呟く笠智衆を思い出す。
でんぐり返り、そう必要なのはでんぐり返りだ。天地を反転させ、あたまからお尻、そしてまた上半身の暖かな顔がこうして現れる。
円山町をでんぐり返りで家路についたのは言うまでもない。ああわたしはあなたのでんぐり返りが見たい、いますぐに 歌がきこえる

草々不一
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