デニロ

悪人志願のデニロのレビュー・感想・評価

悪人志願(1960年製作の映画)
4.0
1960年製作公開。脚本田村孟 、成田孝雄 。監督田村孟。

田村孟唯一の監督作品。これ以降撮らなかった理由は下手くそだったんだ、と思い続けていた。己の才能に見切りをつけた、と。今回機会を得て観たのだが、なかなかに鋭い映像で、感情が高ぶった。

炎加世子という女優は、40年以上前に大島渚の『太陽の墓場』で観ていたがその当時のわたしの感情には合わなかったと覚えている。心中未遂女を襲う集団暴行の嵐!60年の魔女炎加世子!という本作のポスターの惹句が禍々しいが、今観るとなかなか眼の強い素敵な女優さんだ。タイトルロールに東洋興業の所属として示されていたので、何だろうと調べてみると浅草フランス座を運営する会社のようだ。彼女もそこで軽演劇をやっていたらしい。まだ10代の女子。でも、ただの女子ではない。

愛憎関係は意味不明だが、兄と心中し、ひとり生き残った炎加世子を憎む半グレ津川雅彦だが、実は感情は別のところにあるのは明白。余所者の渡辺文雄が絡むのだが脛に傷を持ち、津川雅彦にいたぶられながらも絶対服従。

炎と渡辺の運命は如何に、というストーリーなのだが、人間社会は少人数だけで成り立っているわけでもなく、社会に属する多数の者がいる。本作にもこの愛憎劇を見つめるだけの傍観者がいて、実はこの傍観者との対比になっている。時は1960年。政治の時代、とわたしたちは思っているが、実は圧倒的多数の傍観者がいて、その不作為のエネルギーが世の中を支配する。が、決して不作為を選択しているわけでもなく、実は権力に阿り、恐怖し、保身を選択しているに過ぎない。

勝手に解釈してみたが、今も続く日本の社会構造は簡単には変わらない。余所者、バカ者、若者が世界を変えるというが、日本は余所者を排除し、バカ者を隔離し、若者を分離する。エネルギーを分散させて自分たちを保守する。小さな単位から、政府に至るまでの政策だ。

本作は不発弾の様な危険な作品。
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