Jeffrey

フェリーニのローマのJeffreyのレビュー・感想・評価

フェリーニのローマ(1972年製作の映画)
3.5
「フェリーニのローマ」

冒頭、ローマ最古の道標が今でもローマへの道端に立っている。ここはフェリーニの世界、考古学者たち、遺跡発掘、コロシアムとバイク族。華麗なバチカンのファッションショー。空隙、教皇、神学校、ハイウェイの事故、撮影、学生。今、ローマの歴史がひもとかれる…本作はカンヌ映画祭に招待出品され、絶賛を博した1972年に伊・仏合作のフェデリコ・フェリーニの半自伝的作品で、フェリーニ自身の人生経験を基に、廃れていくイタリアのローマを描いた秀作で、この度BDにて再鑑賞したが面白いが、終盤はカオスな状態になる。この映画の主役はローマとなっていて、半ばドキュメンタリーもしくは観光映画にも見えているのだが、タイトル通り監督の目を通じてのローマが描き出されていて、古代からの遺跡と現在とが共存しているローマが繰り返し死で繰り返し蘇ったことを徹底的に描ききっている。それは皮肉を込めて、お祭騒ぎの民衆を捉えて、ハイウェイでの大事故を捉え、学生たちの質問に答えて、映画は論理ではないとなるまでの作品である。

どうやらフェリーには現在の若者に絶望しているような感じがしていて、疑問を持つ人もいるかもしれない。劇中でフェリーニのナレーションで若者に関して言及されるし、逆に若者から質問攻めに合う場面もあるため非常に興味深く映画は見れる。少年の頃、学校で教えられるローマの歴史、そして米国の俳優ピーター・ゴンザレスが演じる青年フェリーニがローマに到着した1938年の都を舞台に、ローマを支配した数々の権力者ネロ、シーザー、近くはムソリーニのファシストの時代を生き抜いてきた彼の渾身の怒りが爆発してるかのように見える。特に時代が時代なだけに、ヒッピーが集う広場だったり、そういった属性にローマが支配、占領されているような感じが彼にとっては居心地が悪かったのかもしれない。


さて、物語はローマ最古の道標が今でもローマへの道端に立っている。長い年月、風雨にさらされて。少年の頃、ものうい冬の日に教わったローマの歴史。シーザーがサイは投げられたと渡河して行ったルビコンの河原。劇場で感動したシーザーの舞台、カンピドリオの狼の像、教皇様の放送に涙するおば。ローマの処女ブリシラの活動写真に感動した記憶。やがてファシストの嵐が吹き荒れ、エチオピア侵攻、町々に軍国調が幅をきかす。20歳の青年フェリーにはローマの下宿に落ち着く。旺盛な食欲と性欲店開けっぴろげで野卑で、生活をするローマこの凄まじい活力に目を見張るのだ。今日のローマ。土星の環のように首都を取り巻く環状線。この道路を行く雑多な人種、雑多な用をもって進行する車、対峙するデモ隊と警察官。雷雨の中で血を流す事故現場。これらの混雑ぶりとは無縁に照明弾で浮かび上がる遺跡の孤影。

ローマ郊外のロケ地で学生たちはフェリーニにこの映画で何を描くのか、と質問責めにしていた。フェリーニは30年前のローマに想いを馳せる。ジョビネリ劇場の寄席。場末の掛小屋に見る親近感がそこにある。空撃警報に妨げられ防空壕で明かした一夜。それは教皇の都を空撃する筈がないと言うローマっ子を驚愕させた初空襲だった。第二部へ。1871年以来ローマに地下鉄が必要だと説かれた。百年後の今日いまだ地下鉄は完成しない。ローマの地下は謎に満ちている。100メートルごとに遺跡にぶつかるのだ。この日、考古学者たち会いの堀削現場で大きな空洞に突き当たった。穿岩機が怪獣のように壁に挑む。壁の向こうに正に空洞があった。華麗な壁画に囲まれた地下大浴場だ。突如、異変が起こった。壁の穴から吹き込む現代の熱い空気によって壁画が消えていくのだ。考古学者は絶叫する。

なんとか出ないか、文化的損失だ。現在の若者たち、絶望の青春。犬のように肩を寄せ合う彼らにもはや愛は問題ではない。セックスだけだ。戦時中には1つの解決法があった。公設娼家。ピンからキリまであるが、することは同じ、システムも同じだった。古い宮殿に生まれ育ったカソリック貴族の老いた姫君が教皇を迎えて協会のファッションショーを開く。権威にふさわしい豪華絢爛たる衣装の数々。が姫君は孤独に涙を流す。この街の情けない変わり様。昔は良かった。人の心も穏やかで、皆が友達だった。こうした世界と関係なくトラステベレのサンタマリアの泉の傍により集まったヒッピー族は警官隊に追い払われ、やがてローマの夜は遺跡の世界に戻る。何度も死に何度も生き返る都。肉感的で貴族的で、古く、おどけて傷ついたローマ。突如、光と轟音が遺跡をゆり起こす。

黒ジャンパーにヘルメットの50人のオートバイ族が駆け巡る。野蛮なSFの侵略の間、ノバナ広場、コロシアム、フォーラムは束の間息を吹き返し、すぐまた、いつもの判読できない無関心に戻る…と簡単に説明するとこんな感じで、極めて個人的な彼のローマの街の歴史を描いており、ダイナミズムにローマの街を捉えた秀作である。冒頭の件の神学校の生徒たちがスライド等でローマを学ぶ光景に始まるのも、監督自身の少年時代の思い出をそのまま映しだしたと思われる。彼は確かリミニと言う小都市の神学校で、幼い時から極めて厳格な教育を受け、それが強烈な印象となって今でも残っている彼の原型がそのものであり、この映画の中の神学生たちは、ローマの風光を映すスライドを憧れを持って見つめている。


いゃ〜、正直この話前半はすごく面白かったのだが、後半から一気に何が何だかよく分かんない映画になってしまって少しばかり退屈になってしまうのが本音なのだが、冒頭に流れるタイトルバックの和楽器の旋律と音楽がなんとも古典的で素晴らしかった。使われているのは西洋楽器であると思うが、非常にエキゾチックである。というのも「ロミオとジュリエット」並びに「ゴッドファーザー」に続いて音楽を担当したニーノ・ロータであるから、画期的な音を送り出すのは当たり前だとは思う。この作品の主人公と言うのはフェリーニ本人であり、彼のユニークなエッセイとも見受けられるような映画になっている。もともとストーリーがないため、やりたい放題のフレームワークにはなっているが、映像は論理ではないと言う彼自身の言葉が映画で飛び交うのと同じく、この映画はそういった見方ができる。

半ばローマの地下(遺跡)が写し出されるので、ローマと言う都市の内面の探検に正面切って乗り出している感は非常にあり、ファシズム治下のローマ終着駅へ上京してくると言う設定である若い主人公の1938年の物語である。本作は冒頭からすごい魅力的だった。子供たちが草原を渡るシーンで始まり、粉雪降る街の美しいショットが写し出されるのだ。そして演劇が写し出される。銀座のように歩行者天国的な夜の街で、イタリア人たちが食事をする場面がすごく活気溢れていて好き。ペンネアラビアータやエスカルゴなどを食べるグルメが垣間見れるワンシーンなんだけど、家族性も映されていて非常に良かった。それにしても雨のシーンで、高速道路(ハイウェイ)で事故によって大量の牛が血を流して横たわっている場面のスライドショット、テレビクルーたちがそれを捉えようとしている土砂降りの画作りがすごい金かけてるなと思う。

炎上もしてるし、長い時間映されている分、何を見せられているのやら…と。そっからカットは変わって、老人たちの観光旅行が挟み込まれていてなんじゃこりゃってなるし、そこにもクレーンを使ってテレビクルー(監督かな?)が撮影しているし。しかもフェリーニ本人も出てるし。続いて、照明の暗い劇場でのー幕も笑えるし。あと教会内でファッションショーが行われるの風変わりだ。クライマックスのローマのコロッセオ付近の道をバイクで疾走する圧巻の場面はネオンと共にすごい名場面だと思う(この場面はエドワード・ヤン監督の台北ストーリーの若者たちがオートバイで疾走する場面と重なった)。そして不意に終わる…と、これは強烈な余韻を残す終わり方だ。劇中学生たちがこの魅力のない都を今更なんで描くんですかと言う質問があるように、監督は精神と魂が動くローマ批判をしているようだ。

そして皮肉に、バチカンの僧尼の衣装ファッションショーのパロディでからかい抜いて破天荒な反カソリックシーンを映し出して行って自らの怒りを爆発させているのがなんとも面白いが、もはや何が何だかわからないカオスな状態になってしまう。確か当時のカンヌ国際映画祭では寺山修司の「書を捨てよ街に出よう」と篠田正浩監督の「沈黙」が招待されてたような気がする。あ、寺山は「トマトケチャップ皇帝」も上映立ち会いに持ってきてたかな確か…忘れたから曖昧だけど。とにもかくにもフェリーニの独自のスタイルが貫かれた1本である。
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