ベルトルッチ祭り再開。
備忘のために:
- 予想したとおり、これがベルトルッチの実質的デビュー作だと確信。彼を映画の世界に連れ込んだのがパゾリーニだとすれば、この映画はパゾリーニからの離脱であり、故郷パルマからの離脱であり、そしてシネフィルからの離脱でもある。
- アドリアーナ・アスティが、あのアドリアーナ・アスティと呼ばれる理由がようやくわかった。ジーナはアドリアーナであり、アドリアーナがジーナなのだ。
それにしてもベルトルッチのカメラは正直だ。好きで好きでたまらないこと、好かれるのが嬉しくてたまらないこと、ようするに、つかの間の愛を、かくもみごとに捉えてしまうのだから。
- 音楽はモリコーネ。モリコーネだからピタリとはまったのか、ベルトルッチだからモリコーネを使えたのか。
- 「ヴェルディ、ヴェルディ、ヴェルディ!なんて退屈なの。それでも今夜の『オテッロ』はすばらしい」。なるほど、ベルトルッチとオペラの関係がよくわかる。そこから逃げ出したつもりなのに、その場所に帰ってきてしまうようなものというわけか。
- あの弟君は、将来のライバルである弟のジュゼッペ・ベルトルッチなのか!だとすると、ラストシーンのアドリアーナと彼の抱擁は... 実にスキャンダラスな抱擁ということ...?... いやはや。
- フェリーニの『甘い生活』がベルトルッチの背中を押したこと。そのフェリーニの師匠のロッセッリーニの「声」in『アモーレ』から、ジーナ/アスティの人物造形が着想されたこと、もちろんアントニオーニの『情事』などの3部作の影響もあるというのだけれど...
- けっこう名セリフがあったけど、やっぱりこれ。
「ロッセッリーニなしで生きられるわけないだろう」
«Non si può mica vivere senza Rossellini»
このセリフとともに覚えられるべき名作でした。