これがブレッソンとは俄に信じられない。アンヌ・マリーが「訓戒を」と次々同僚の個室を訪ねると次々歯に衣着せぬ指摘を受け本人逆ギレするシーンを完成形ブレッソンがセルフリメイクしたらどんなふうになったのかな。
信仰により世俗の理屈が通らない境地に達している人の理屈がロッセリーニ『神の道化師、フランチェスコ』に似てるようでこちらのアンヌ・マリーは独善的利己的、本人はあくまで神の使役としての言動のつもりであるが世間知らずのわがままお嬢様の理屈にみえてしまう。五体投地さながらの姿勢で告解する場、世俗を断ち切った場であるはずの修道院も所詮集団社会で、とどのつまり彼女は修道院にあってもそうでなくても似たような末路を辿っていたかもしれない。アンヌ・マリーが庇護しようとする存在であるテレーズは対照的なようでいて、もしかしたらアンヌ・マリーと相似形だったのかもしれない。
隅に追いやられていく者たちというモチーフは『バルタザールどこへゆく』や『少女ムシェット』につながるのかもしれない(無理矢理)し、ラストで十字に差し出されサッと手錠を掛けられるテレーズの両手には誰もがブレッソンの原形をみるだろう。