そーた

オルフェのそーたのレビュー・感想・評価

オルフェ(1950年製作の映画)
3.8
西洋の眼、東洋の眼

オルフェウスと聞けば、
ギュスターブ・モローやオディロン・ルドン辺りの象徴主義芸術を真っ先に思い浮かべてしまう。
 
彼らの主題の捉え方の違いに鑑賞者として抱く気持ちは様々だろうが、
僕はルドンの『オルフェウスの死』に魅せられ、岐阜県立美術館まで足を運んだクチ。

オルフェウスに関して言えば、
モローの暗さよりも、
ルドンの明るさのほうが好きなのだろう。

そんな、多くの芸術家にイマジネーションを与えるオルフェウス神話だが、
「芸術のデパート」と形容されたジャン・コクトーもまた、
それに刺激を受けた一人である。

とは、言うものの、
僕はジャン・コクトーについて全くの無知。
名前を知っているくらいなもの。

だからこそ、
それをいいことに好き勝手解釈してみようというのが今回の魂胆なのだ。

では、話題を、
比較神話学などという何やら怪しい学問の話に移してみたい。

その分野でよく引き合いに出されるのが、
古事記のイザナギ・イザナミ神話とオルフェウス神話との類似性だ。

知名度抜群な双び神(ならびしん)による冥府でのやり取りは、
遥か紀元前のギリシャ神話での仲睦まじい若夫婦の悲劇とリンクをする。

というよりも話のスジはほぼ同一だ。

オルフェウスもイザナギも、
死んだ妻を追い死の国へと赴くが、
結果として妻を現世に連れ戻す試みに失敗してしまうというプロットが、
示しを合わせたかのように一致している。

実は、世界の神話は体系ごとに分類ができるらしく、このような酷似性を比較検討するところに、比較神話学の醍醐味がある。

今回のオルフェウス神話に関して言えば、
西洋神話がシルクロードを経由する過程で東洋のエッセンスを纏い行き着いた最果てで、
国体強化を目的とした国史編纂を契機にそのエッセンスが取り込まれたという、
あまりにロマンのない見方をすることも可能だ。

だが、ギリシャと日本とのこのような邂逅の秘密を無暗に暴こうとはせずに、
オルフェウス神話とイザナギ神話とを単純に比較してみると、
説話の表現法に明らかな違いを感じずにはいられない。

オルフェウス神話にある美意識が、
というよりもギリシャ神話に根付く美的感覚は、
イザナギとイザナミとで繰り広げられるある種の"夫婦喧嘩"には皆無なのである。

何よりも、
イザナギが冥府からの追っ手を振り切るために櫛や桃を投げつけるというくだりは、
大陸の魔除けの思想を反映しているらしいが、
それがどうにもこうにも滑稽すぎるのだ。

死生観をロマンスに仕立てたギリシャ神話に対して、
それを何やら日常のひとこまのように描いてみせる日本の話法には、
日本らしいユーモアを大いに感じると同時に、
この段階においては芸術的なソフィストケートの余地は無いと言いたくなってしまう。

センスとユーモアの違い。
両者の対比の帰結として、
そのような解釈も何やら面白そうではある。

さて、このように東西神話を並べて考えたわけだが、
思考の矛先は西洋と東洋での美意識の差へと自ずと向いてきてしまう。

美術史家・高階秀爾による、「西洋の眼、東洋の眼」の一節に、東西の美意識の対比についての興味深い箇所がある。

そこでは、日本文学研究者であるドナルド・キーンによる西洋の詩学の考え方が紹介されており、
西洋での詩とは超自然的なものから生まれ、人間の言葉を纏うことによって人々を動かすとされるが、
ドナルド・キーンによればこの見解と正反対なのが日本の詩の解釈なのだそうだ。

ドナルド・キーンが着目したのが、
「古今和歌集」の編纂者の一人である紀貫之による序文。
それによれば、日本の歌は人の心を種として生まれ、人々の心に訴えかけ、さらには超自然的存在をも動かすのだとある。

詩の成立条件を美の成立条件と読み替えてみれば、
まさに、美意識を生むメカニカルが真逆に働いていることが対比されている。

では、だいぶ極論が過ぎてしまうが、
東西での美意識の逆転は、
オルフェウスとイザナギの振る舞いの違いが生んだものだと強引に捉えてみることにしよう。

それでようやく、
ジャン・コクトーの作品について触れていくことができるという訳なのだ。

以上のような考察を踏まえると、
ギリシャのオルフェウスを現代に甦らせたコクトーの作品は、
さながら、伝統的な西洋の美的感覚との決別を図っているように思えてしまうのだ。

「鳥は指でさえずる」など、
なぞのフレーズがひたすら聴こえてくるラジオの虜となるオルフェウス。

実は死神の手下によって電波にのせられたその言葉の数々こそ、
キーンの言う西洋的な詩、
すなわち、超自然的存在が人間の言葉を纏ったものと見なすことができ、
その言葉に魅了されたオルフェウスこそは西洋的な美の象徴なのではないか。

そのオルフェウスの人間的な魅力に逆に引き付けられてしまった死神は超自然的存在に他ならないが、
結末ではそんな死神を、人であるオルフェウスの持つ健気さが突き動かしてしまう。

そう、その瞬間がまさに、紀貫之流の日本的な美の感覚が成立した瞬間なのだ。

コクトーが「古今和歌集」を知っていたとはさすがに思えはしないが、
だからこそ、
ギリシャ神話を現代流にアレンジした物語のそのラストが、
キーンが強調した日本的な詩の原理をなぞるというある種のミステリーは、
さきに挙げたギリシャと日本の邂逅よりもなおエキサイティングだ。

コクトーの映像表現がもつ、浮遊感漂うノスタルジーはやはり西洋的感覚ではあるものの、従来の価値基準を暗に否定し、
価値を逆転せしめた点では野心的といえ、
一方、極東の島国を生きる者からしてみれば、その野心の対象がどこか慣れ親しんだ感覚に近いが故に、
何やら安堵するのかもしれない。

僕がモローよりもルドンに軍配をあげたのも、
安らかな暖かいオルフェウスの死に顔に、現世的な親しみを感じたからなのではないか。

とは言うものの、
ルドンの描いた『オルフェウスの死』を前にしたとき、
僕の目は、果たして西洋の眼だったのか、はたまた東洋の眼だったのか、、、

自分が何者であるのかが、
この頃分からなくなることがある、、、
そーた

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