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SAFEのROYのレビュー・感想・評価

SAFE(1995年製作の映画)
3.9
『ケミカル・シンドローム』

化学物質過敏症に陥った主婦の姿を通じて、80年代半ばのアメリカ西海岸のライフスタイルを皮肉に描き出す異色作。

日本でも潜在患者が1000万人いるといわれる“化学物質過敏症”。その、いつ誰が感染してもおかしくはない環境病の恐怖をジュリアン・ムーアが熱演。

■STORY(ネタバレあり)
1987年、LAの高級住宅街サンフェルナンド・ヴァレー。何不自由ない生活を送っていた専業主婦のキャロル(ジュリアン・ムーア)はある日突然、化学物質過敏症というアレルギー症状に陥る。彼女の周囲を取り巻く壁紙、家具の塗料、スプレー、ペンキ、そして屋外の排気ガスといった化学薬品全てに反応してしまうのだ。キャロルは彼女と同じ症状を持つ人々のコミューン、ニューメキシコ州にあるレンウッドセンターの存在を知り、そこへ向かう。センターで代表のピーター・ダニング氏(ピーター・フリードマン)らの下、キャロルは治療に専念し、少しずつアイデンティティを取り戻していくのだった。

■NOTES(チラシより)
〈安全なるものの致命的な危険性〉

最新作『ベルベット・ゴールドマイン』でこれまで以上に注目を集めるトッド・ヘインズ監督の前作『SAFE』は、化学物質過敏症を扱った映画である。ロスの高級住宅地に住む主婦キャロルは日常生活のなかで突然、 吐き気やめまい、パニック症状などに襲われるようになり、化学物質が蔓延する世界のなかで追いつめられていく。

日本ではいま、環境ホルモンやシック・ハウス症候群の問題が大きな関心を集めているだけにこの題材は興味深い。 しかしこれはただ単に化学物質過敏症の現実と恐怖を描く映画とはまったく違う。

この映画の87年とロス郊外の高級住宅地サン・フェルナンド・ヴァレーという設定はヒロインが置かれた状況を理解するヒントになる。レーガン政権の80年代は貧富の差が大きく広がった時代であり、 都市のスラムに残されたマイノリティは不満を爆発させ、時代の波に乗りきれなかった中流家庭は崩壊していく一方、富める者たちはさらに豊かになっていく。

サン・フェルナンド・ヴァレーは大戦後いち早く郊外化が進み、 新しいアメリカン・ドリームの象徴となったが、80年代には最も離婚率が高く、ティーンのギャングが徘徊し、都心から流れ込むマイノリティのギャングとトラブルを巻き起こす場所となっていた。そこで富める者たちは、 さらなる安全を求めてヴァレーの奥へと逃避し、豪華な屋敷と生活で防備を固めていく。

ヒロインの豊かな生活にはそんな背景があるのだが、彼女が置かれたこの状況には話題の映画『トゥルーマン・ショー』に通じるものがある。主人公トゥルーマンは究極の人工的な世界に暮らし、 彼の人生を支配してきたTVプロデューサーは、仮に主人公にすべてが虚構であることが露見しても決して彼はその世界を出ていくことがないと確信している。

なぜならそのなかに居れば絶対に“安全”であるからだ。この映画では、安全を渇望する万人の感情がプロデューサーの確信に凝縮され、その絶対の安全というものが主人公を裏切ることになる。

『SAFE』のヒロインもまた防備を固めた城ともいえる人工的な世界なかで、自らをインテリア・デザイナーに見立て、模様替えを楽しんでいるかに見えるが、もっと残酷なかたちで同じ裏切りを体験する。彼女の心の支えであるはずの物の豊かさが牙をむくのだ。これをあくまで富める者たちの話と思う人もいるかと思うが、それは大きな誤りだ。ヘインズ監督は、物とそれを補強する画一的で表層的な幸福のイメージに依存するライフスタイルのなかで、物理的にも精神的にも孤立していく核家族の運命を独自の視点と表現で掘り下げているのだ。

アメリカでは50年代の郊外化のなかで核家族の限界が次第に露呈し、60年代には若者たちが家族の枠組みを取り払って共同生活を送るコミューンを各地に作りあげた。『SAFE』のヒロインもまたコミューンに救いを求め、孤独を癒すような宗教的連帯感のなかで自分は救われたのだと信じようとする。彼女は決定的に変わったかに見えるが、まったく変わっていないものがある。

それは〝安全〟への盲信だ。彼女は、その安全を守り通すために本当の自分を捨てていく。安全があたかもドラッグのように彼女を蝕み、その致命的ともいえる毒性、常習性が浮き彫りにされる。デイヴィッド・クローネンバーグは人工的な環境における人間の内面的な病を象徴的な肉体の変容劇を通して描きだすが、そうした象徴的イメージを何ら使うことなく同等のインパクトを観客にもたらすところにこの映画『SAFE』の底知れぬ恐ろしさがあるのだ。

文:大場正明

■COMMENTS
リンチやクローネンバーグが好きな人は刺さる
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