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ライフ・イズ・ビューティフルのmogのレビュー・感想・評価

2.7
ホロコーストを描くのは本当に難しい。

最初にこの映画を見たときは微妙な違和感を覚えた。けど自分ではその違和感を言語化できなかった。そのあとショアのような映画を見たり、フランクフルト学派の書いたものを読んだり、表象の問題について考えたりいろいろして、何年も後に最終的にアート・スピーゲルマンのインタビューを読んでこの違和感が見事に言語化されて腑に落ちた。

アート・スピーゲルマンは自身の父親のアウシュビッツ体験を擬人化したネズミを用いて描いた「マウス」というカートゥーンの作者。ロベルト・ベニーニはこのライフ・イズ・ビューティフルはマウスに触発されて撮った、とも発言してる。それを受けて、アート・スピーゲルマンは、このライフ・イズ・ビューティフルという映画は非常に問題が多いと批判している。

その批判の骨子は、「マウス」はメタファーを用いて歴史を描こうという試みであったのに対して、この「ライフ・イズ・ビューティフル」は歴史をメタファーにしてしまっている。それはアウシュビッツを単なる嫌なもの、悪いもの一般を指す記号にすることであり、歴史の矮小化である。というもの。

実に鋭い。

(このインタビューを読んで例えばポール・トーマス・アンダーソンの映画がリアリティを持つのはまさに逆の理屈だよなあと思ったりした。一般的な構図に回収されない極端なまでにいびつな固有性みたいなものを描くからゴツゴツした手触りの映画になる。それがリアルなのかどうかはさておくとしても。)

このスピーゲルマンの批判は、例えば岡真里さんの言ってる以下のような内容と同じことだと思う。
ウィキペディアから引用すると、

ジャーナリズムがイラクやパレスチナなどの「戦争の惨禍」を映し出そうとする映像は記号化されステレオタイプ化したものであり、人々の痛みや叫びを伝えることはできない。本当に大事なのは人々がどのようにその生を営んできたのかという生の具体的な細部なのであり、記号に還元されない具体的な生の諸相を描き、人間的想像力と他者に対する共感を喚起するものとして、文学は今こそ切実に求められているのである。

という話。文学だけじゃなくて映画も同じことですよね。

そんな難しいことをごちゃごちゃ考えなきゃ楽しめる映画だとは思うけれど、どうも自分にはホロコーストが描かれてると難しいことを考えずに見ることが難しい。

あと、やっぱり子どもの捉え方も気になるよね。子どもってそんなに無邪気で無垢で何も考えないか?これはゲームだって?信じるか?父さんがそう信じ込ませてくれたから助かった?あまりにもリアリティがなさすぎてもはやグロテスクにさえ見えてくる。

子どもの無邪気さ無垢さが悲劇を生むパターンのホロコーストものとして縞模様のパジャマの少年て映画があるけどあれは子どもは子どもなりのリアリティで世界を捉えてるからああなるわけであって、そういう意味ではずっと子どもをちゃんと描いてるよね。あれはあれでまた問題がある映画だとも思うけども。
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