食用牛の吊るされている冷凍庫は何かのアクションシーン(すぐに出てこない…)で観ていても剥がす前の過程は知らないし見たくないが何度も牛の眼と銃殺的屠殺が何度も映される。だから食は合掌から始まるべきなのだと当たり前のことを改めて感じた。射ちから始まる複雑な三角関係は射ちで終わると思いきやモヤモヤで終わるのは流石だとか今頃初見で記すことではない。柳町光男がアジアへ目を向けた時期から映画をちゃんと観なくなっていた。観るとしてもアジアには興味もなく向き合い方もよく分からなかった。ここで描かれるこの時代の今で言うdisが今とは似て非なるdisであると思っているがあくまでも感覚的なものであり根拠はない。ただしやったりやられたりの立場がその人によって刻まれた記憶が違うのだ。そういう過程を経てそれぞれが曲がりなりにも反省、成長して今がある。そして気がつけば様々な人との交流があり、観る映画も幅広くなり知らないことを知る。
にもかかわらず、日本人純粋論が浮上する人たちの謎が漂う現在…
黒沢あすかは既に完成されていた。
改造人間ではないアナログでマシーンと化した藤岡弘が適役すぎる。