カラン

二十四の瞳のカランのレビュー・感想・評価

二十四の瞳(1954年製作の映画)
4.5

遠い昔に観たことがあるような気がします。田中裕子のリメイク版(1987)の方かもしれません。黒木瞳のドラマ版(2004)もあるようです。また、少年少女文庫とかいう感じのタイトルの叢書で、貝殻の挿絵が入った壺井栄の原作も読んだような気がしますが、はるか昔のこと。


☆一般的な涙

今回、Blu-rayで観ました。ジャケ写見てください。高峰秀子がモノクロームの画面にキラキラ輝く桜の林で「しゅっぽっぽっ〜」って歌いながら二十四の瞳を持つ教え子たちと汽車ごっこをしてるんです。映画は素晴らしかったです。高峰秀子も、ひどいんです。たぶん演出を超えてると思いますよ、泣き通しですから。新藤兼人の『原爆の子』で乙羽信子さんが泣くのは一度きりですよ、あんなに新藤さんが・・・のにもかかわらず。

木下恵介の『二十四の瞳』で私が涙したのは、目の見えなくなった青年が、戦争が始まる前の写真を手にして、指でなぞりながら、《見えた》時です。危うく持病の地獄鬱も吹っ飛びそうになる、不可視を可視化するシークエンスです。しかし不可視は不可視に終わります。ここでも高峰秀子が堪えられず目を押さえてしまうのです。カメラはそこを捉えています。この映画は庶民の映画なんです。そこが涙の意味を刷新しようとする新藤兼人の映画と違うところですし、木下恵介に特有の涙を一般化する素晴らしい能力なんでしょう。しかし、画面で涙を流すのは、涙の表象は、心の涙を奪うのです。もちろんそんなことは木下恵介は分かっているんでしょう。新藤兼人が乙羽信子に泣かせないところで、高峰秀子に泣かせておくんです。ですから、この映画は本来は(?)私が泣くはずのないタイミングの映画でありますし、《本当の涙》は新藤兼人の映画にあるんじゃないかと思うんです。それでも、私は鬱ですし、ツンデレなので、他人の涙にあわせて流す涙は私にはありませんが、この『二十四の瞳』に泣きましたよ。

しかし、ちょっと点数引きました。なんかね。いえいえ、同じモノクロで同じ瀬戸の海を撮った新藤兼人の『裸の島』のほうが海が美しいからとかいうことではないんです。私、ツンデレの鬼鬱野郎なんで、映画を観て泣けたかどうかで映画を評価するのが嫌なんですが、今はこの因果な性格を直したいとも思っているのです。だったら素直に5点満点でよかろうにってなもんですが、0.5点引いたんです。

以下、くだくだ続けますが、地獄鬱野郎の戯言ですので、健やかで良識のある皆さんは気にせずに、どうかこの映画を観てください(謎)





☆戦争の痛み

ロラン・バルトが『恋愛のディスクール』で、

「恋する私は狂っている。そう言える私は狂っていない。私は絶えずこの狂気を意識し、語り続ける。」

と書いています。このフラグメントに私が賭けているのは、恋愛の狂気はそのステレオタイプなイメージに反して非-物語的であり、それ故に表象不可能であるが、恋愛主体に語ることができるのは恋愛における自らの狂気だけである。そしてこのジレンマが恋愛主体を憔悴させる、ということです。

ところで、戦争の痛み、も同じように、うまく語ることができないのではないか、と私は思うのです。ユダヤ人がナチスに虐殺されました。虐殺されたということを風化させてはいけないので、それを語り継ぐために、映画やドキュメンタリーや、ルポルタージュが後から後からでできます。しかし、これは間違いです。語り継ぐ必要があるから、後から後から語られるのではない、のです。語ることが《できない》から、後から後から語らざるを得ないのです。

日本人で、この映画の高峰秀子が感じたような痛みは、今ではもう忘れたほうが良かろう、なんて言う人はいないでしょう。戦争が終わって幾十の月日が経ったのだから、こんなに哀しい映画を今一度作る必要などなかろうなんて言う人はいないんでしょうね。ユダヤ人にナチスのことは、朝鮮の人に日帝のことは、水に流せよって言う日本人はいるんでしょう。しかし、日本人で木下恵介の墓に向かってこの『二十四の瞳』はもはや現代日本には不要だなんて言う人は、たぶん、いないんでしょうね。

ここなんです。私が抵抗を感じるのは。その記念にマイナス0.5しました。木下恵介の素晴らしい一般化の技法にたしかに感嘆の念は禁じえませんがね。


私の実家の近所に相当に高齢のご婦人が住んでいらっしゃる。私の母の話なのだが、町内会で今度花見に行こうと、みんなで盛り上がった。ある人が江戸城のあった所に行こうと言いだし、そうしようそうしようと皆が喜んだ。するとこのご婦人は、一緒に行くのやめた、と。皆、顔を見合わせた。お堀の中に住んでいた人物こそが、その婦人の亭主や兄弟を戦争にとっていった。それで今自分には犬以外は家族がいない。だから、そこにだけは近づきたくない、ということらしい。


皆んな思ったんでしょうね、「いい加減にしろ、もう沢山だ」って。私の母も皇居に行きたかったとぼやいていました。こういう母の態度はユダヤ人や朝鮮の人に対する「もう沢山だ」っていう態度と同じく勘違いだと思うんですよ。皆が戦争の記憶を我有化して、終わったことにしている。終わってないのは同胞か、自分と同じ志向の戦争の記憶だけ。あるいは、高峰秀子のように美しい涙を流し、心の奥底では自分は泣かないが、映画に代理で泣いてもらえる、そんな戦争以外は、終わったことにしているんじゃないですかね。でも、戦争の痛みについて語り終えることができると考えるのは勘違いなんじゃないですか。涙は一般化できないんです。木下恵介は不可視を可視化しましたが、あわせて、不可視性を葬っているんじゃないかと思うんです。ロラン・バルトが自らの狂気を絶えず意識し、狂気について語り続けるのは、自分の狂気について語ることが不可能だからでしょう。日本人と日本の痛みは、バルトと彼の狂気と同じ関係なのではないでしょうか。

私は見えないものが見たい。語れないものを語る映画を観たい。でも、それは不可能を可能にすり替える手品が見たいのじゃない。不可能なものを不可能なものとして、見て、感じて、私も同じように人に語りたい、という意味です。





追、松竹のBlu-rayソフトは、オリジナルの損傷が激しいためか、画質はさほどに良くありません。紀伊国屋の出しているフェリーニの『道』のBlu-rayとほぼ同じレベルです。どちらも十分楽しめますが。
カラン

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