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犬と女と刑(シン)老人
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『犬と女と刑(シン)老人』に投稿された感想・評価

Jeffrey

Jeffreyの感想・評価

4.0
「犬と女と刑老人」

〜最初に一言、木下恵介の「二十四の瞳」を愛して止まない謝晋が一九九三年に監督した文化大革命の中を生きる人々の苦悩を描いた傑作で、このような作品をVHSのまま眠らせているのが本当にもったいないほど素晴らしい作品だ。中国映画特有の素朴なドラマが胸を打つ。私はこの作品が大好きである〜

冒頭、一九七二年のゴビ砂漠のある辺境の地、寧夏。物乞いの女が老人の家にやってくる。二人の出会い、エロス、富農階級、犬、文化大革命の影、大飢饉、砂嵐、薩摩芋、政治、作物、村の人々。今、虐殺の歴史を静に批判する…本作は一九九三年に謝晋が監督したヒューマニズムの追求が底に流れている作品で、人間愛を謳い続ける監督の名作のー本である。この作品を今回VHSを購入して初めて見たのだが、剥奪されたあの時代を生きてきた中国人にとっての忘れてはならないあの時代を描き、それでも忘れてしまう人々の過去の事跡と言う事についてを掘り下げている。大東亜戦争が終わり、貧しい中を懸命に生きてきた日本人として、中国が毛沢東の文化大革命により、戦々恐々として、いかに政治の厳しい戒律の中で暮らしていかなくてはならないかと言うのをまじまじ見せられた気分になり、正直ー人の老人とー人の女とー匹の犬しか主軸にしていない作品で、ここまで感動させられる映画もやはり中国ならではだなと感じるのである。因みに原作者の張賢亮(チャンシュンリャン)は、一九三六年に資産家の家庭に生まれたそうで、小説を書く前は詩人だったみたいだ。十代で詩作を始めて二十歳を過ぎたばかりの頃に描いた"大風歌"と言う詩が、折からの反右派闘争で反社会主義の大毒草として批判され、実は資産階級出身であることが罪とされて、これ以降労働改造、監視、収監されること二十二年に達したそうだ。

中国映画の好きな所っていうのは、単純で素朴なドラマが完璧に仕上がるからだ。歴史の基本的な精神と芸術への模索を理解していた監督による中国の過去と現在をわかっていただきたいと言う思いが切実に伝わる名作である。日本上映したときのインタビューが今も忘れられない。彼は確か仏は信じないが、人間の縁と言うものは信じると言って、私と日本の観客の皆様とは深い縁がありますと絶賛していてくれたことを忘れない。この映画を見てふと思ったのが、この作品が日本で公開された年の前年度は、平成四年であるから、天皇陛下が訪中された時期である。その時に、監督は日中両国は映画などの文化交流をもっと増やさなければならないと言っていたことも思い出す。そして大映株式会社が彼の作品を多く配給していたことにより感謝もしていた。彼の作った八本の作品の特集上映が行われた時代である。本作の物乞いの女を演じたスーチン・カオワーは、第四十三回ベルリン国際映画祭で金熊賞を見事に受賞した中国映画の「香魂女 湖に生きる」に主演していて、確かこの作品VHSしかない映画で、早く円盤化して欲しい。彼女はモンゴル族であり、中国で最も有名な女優のー人として有名だ。

そもそも中国映画がようやく日本でも一般的に親しまれるようになったのは、やはり先ほども述べた「芙蓉鎮」の圧倒的なヒットが皮切りだろう。それ以前にも第五世代のチェン・カイコーや張芸謀などがいたものの、中国映画の新しい波に共感した多くの日本人は、謝晋の作品を見て驚いたに違いない。まさに中国映画の伝統がここまで面白いとは…と言うのを思い知らされたー本だと思う。謝晋は中国映画の第三世代にあたり、第五世代の張芸謀らとは違っており、芸術性よりも大衆的な作品をよく作っており、さらにシンプルでわかりやすいものを提供してくれる。文革がどのように酷いものであったかを、一九六三年から七十九年までの湖南省の街を舞台にして米豆腐屋の若妻、その夫、新しい恋人、彼女に親切な主任そして悪役である政治工作班長といった人物を配置することによって物語を作っていく彼の演技の引き出し方は素晴らしいの一言だ。

小難しいアートフィルムではなくストーリーを重視している分、大衆に愛され、観客動員数もケタ外れで凄い事になる。特に彼の場合は骨太の堂々たるドラマを展開させていく分、圧倒的に面白いのだ。彼の作品を数本見ている人はわかると思うが、基本的に古典的であり、センチメンタルである。そして、自分の感情を主題に乗せていくような映画作りをしている。確か監督と佐藤忠男との対談で、彼が、北京での審査は「芙蓉鎮」「天雲山物語」よりかはすんなりと本作が通ってびっくりしたと言っていた。文化大革命を正面から描いておらず、裏から描いているからと言うことを言っていたが、私からすれば結構露骨に批判的に描いていた。話は変わるが、この作品のタイトルロールの出し方がめちゃくちゃかっこいい。というか日本映画もそうだけど中国映画のタイトルロールの出だし方ってめちゃくちゃかっこいいんだよね。基本的に漢字しかないから漢字が四、五文字並ぶんだけどめちゃくちゃダイナミックでさ。さて、長い前フリはこの辺にして物語を説明していきたいと思う。



さて、物語は一九七二年、ゴビ砂漠のある辺境の地、寧夏。絶え間なく砂煙が舞い、太陽の光もぼんやりと射している。刑(シン)老人は今日も黙々と畑を耕し、老人の唯一の家族の愛犬は、畑仕事を手伝うかのように、畦を縫って駆け回る。家に帰った老人と彼の犬は、戸口に座ってサツマイモを分け合って食べ始めた。すると、庭の木に巣くったカササギが小さく泣いた。カササギが泣くのは、吉兆である。犬の元気な様子を見て、お前にも幸福が来るのが分かるのかと話しかける刑老人であった。夕食の支度を始めた刑老人の家の門口に、一陣の風と共にいて物乞いの女が立った。歳の頃は三十四.五歳。何日も飲まず食わずの様子である。刑老人は、女を招じ入れ夕食に用意した芋とうどんを施し、水を与えた。女はそれらを夢中で平らげると、かまどの側でうとうとと眠ってしまった。物音で女が目を覚ますと、戸外は砂嵐が吹き荒れていた。

その日から、女は刑老人の家に住み、彼の身の回りの世話をするようになった。汚れた落とし身を整えた女は豊満で女盛りの美しさを持っていた。そして、もう次の日からこの村の女たちに混じって、収穫した種の選別の仕事を手伝い始めた。彼は六〇歳を超えていたが、貧しさから一度も嫁を取ることもなく、長年愛犬と暮らしてきた。彼は女の口説き方も知らなかった。しかし、美しく気立てが良く、よく働くこの女は、彼にとって紛れもなく、天女であり、夢のような毎日が続いた。女は、山の村に二人の子供としゅうとと夫婦を残していた。文化大革命の極左の風が吹き荒れた山の村で、富農出身と言う線引きだけで悪者にされた女は、村が大飢饉になり、一人分の食料を浮かせるために物乞いに出たのだった。

老人は女に新しい服を買ってやり二人は連れ立って市場へ買い物に出かけた。彼も女も次第に結婚を考えるようになった。そんなある日、女宛に手紙が届いた。市場で見かけた村の男が家族に知らせたものらしい。義母が足を折り、上の男の子が出稼ぎに行くことになったのだ。この日から女の明るかった表情が陰り、ふさぎ込むことが多くなった。収穫が終わり、老人は町に砂を運ぶ共同作業のため三日間家を開けることになった。女は、老人のために食べ切れないほどの弁当を用意して、涙ながらに見送った。老人が出かけて三日目の朝、家の中から犬の吠える声がしきりと聞こえる。不審に思って近所の主婦が老人の家の戸を開けた。きちんと整理された家の中に女の影はなかった。

女との暮らしが泡沫のように消え去った老人。その身にさらに政治の嵐が襲った。一日二五〇グラム、一ヵ月で7七.五キロ、一年で九〇キロの殻物を食べる犬は、人間の食料を脅かすとして、犬殺しの政令が中央で決定され、村の集会で発表になったのだった…とがっつり説明するとこんな感じで、この作品が当時作られた際の中国人民十二億人の文革の個的な体験から歴史、内省が明るみになり、壮大な理念を具現化し、あの文化大革命と言う壮大な政治運動、権力闘争で幸せになるべきはずの最下層の貧しい農民たちがどれほど苦しめられたかと言うことを赤裸々に描いた、静かなる文革への批判である。この映画を見終わると、どこまでも望みがない、望みさえ失われてしまった農民たちを痛めつけるこの運動のおかしさが伝わる。それこそ「芙蓉鎮」の様な激烈な闘争や、政治の激しさは描かれてなくて、人間として最低限必要な食べること、嫁を取ること、日常生活を愛すること、そして生きていくことを願う人民による希望を描いた作品でもある。

ただそれだけにとどまらず、主人公の老人がこれまで全く政治的な世界に関わりを持っていなかったのに、政治闘争の渦に巻き込まれていく姿が描かれており、老人の苦痛と孤独の運命を我々観客に見せつけ、あの時あの場所の歴史の時代の苦難を再確認させ、あの当時農村を襲っていた貧困の集約がこれだけあることを突きつけた、まさに彼の傑作のー本である。監督自身による文化大革命を問いなおす重大な映画の一つだ。この監督って、観念的思想を語るより実物大の人間像を大切に撮り続けている感じがしてすごく好ましい。本作の老人の行動を丹念に取ることによって時代と言うものをリアルに浮かび上がらせたことに成功しているし、ワン・ビンの映画「無言歌」の舞台ともなったゴビ砂漠の最果てで、暮らす老人の農場だったり、中国らしさが道あふれていた。原作者は、五十七年の反右派闘争の際に、二十二歳で右派分子に線引きされて労働改造所に送られ、その後二十年間農業に従事していた作家で、謝晋監督八十一年の大ヒット作「牧馬人」の原作者として知られているようだ。私もこの監督の作品を連続してみたから色々とわかったが、普通だったらなかなかわからないことだ。興味がなくてわ。


いゃ〜、冒頭から傑作の匂いしかしないファースト・ショットの美しい風景と中国伝統の音楽に魅了される。中国ならではの作品で非常に心に染みる。ここ最近のチャイナ映画はハリウッドの真似をしているのか、壮大な作品ばかりとっているが、もちろんそういった作品をとって構わないが、本作どのようにひたむきな人民と違う生活をしている作風をもっと出してほしいものだ。因みに主人公の幼な妻は四川省から流れ着いた逃荒女と言うもので、逃荒とは飢餓のため、物乞いに出ることを言うらしい。それらが観客に強い印象を残したと評論家たちが評価していた。

この作品の孤独な老人のところにたどり着き、老人に一時光明を与える女のむこう山から流れ着いた最も文革の攻撃の対象となった富農出身の逃荒女である。労働改造二十年を余儀なくされ、その間毛沢東の著作しか読むことを許されなかったと言われる原作者は、この間人生の哲理を模索し、傷ついた人間の心の美しさ(傷痕美)を描くことに定評があったらしい。特に最も虐げられた重労働で働く女たちへの慈しみは深く、この点が監督の描きたい人物像と合致していたと言うのである。

逃荒女(物乞い女)を演じた女優さんの富農階級の烙印を押されたものの、実は嫁に行ったときにはすでに貧乏暮らしのむこう山の女は、口べらしのために老人の住む村にやってきた芝居がとても印象的で素晴らしかった。老人の優しさに強く魂を動かされ、夢中で畑仕事を手伝うが、山に置いてきた息子と祖母を見捨てられないと言う思いが彼女の作り出す表情から伝わる。これが迫真の演技と言うものであろう。老人を演じていた人もこの当時八〇歳だったらしく、三〇年ぶりの映画出演だったそうで、八十三年には「茶館」で監督もしているとの事だ。

今思えば、謝晋監督の作品はどの東南アジア諸国の国々と比べても日本が圧倒的に上映回数が多かった。確か「乳泉村の子」では日本の女優栗原小巻が新のイメージを作り上げていた。本作の冒頭で、下駄を履いてやってきた主人公の女性が、素足を交互に湯を入れた洗面器に入れる場面があるのだが、中国の北方では、女性が素足を見せるのは大変恥ずべき事であると言う慣し?的なものがあるようで、また足を見せる=靴を脱いで見せると言うのは全裸になるにも等しいと言う習慣があるそうだ。だからあの場面で足を洗う女を時々目をそらしながら眺めている老人にとってはかなり興奮している状態であることが分かるとの事だ。これは中国文学に詳しい竹内実氏が言っていたと記憶する。

そうすると「芙蓉鎮」でもこの足を洗う場面が映り込むのはそういった意味合いがあることが改めてわかる。このなんでもなさそうな老人と女のワンシーンに、性的なものいわゆるエロチシズムが情景にあることがわかってくるのだ。やはり映画と言うのは、いろいろな情報を知ってみるとなるほどなと思うものだ。そしてこの作品冒頭にボロ家に寄ってきたその女が食べ物を分けてもらおうと近寄った瞬間に老人の犬に思いっきり威嚇され猛烈に吠えられるシーンがあるのだが、なんとも不条理である。その前に老人と犬はご飯を食べていて、その女は犬以下であると言うような演出がなされている。このシーンで中国映画とはまるっきり違う要素を持つチェコ・ヌーヴェル・ヴァーグの傑作の1つとして私のALL TIME BESTに入れているネメッツの「夜のダイヤモンド」のユダヤ人青年二人が、犬が餌を食べていて自分たちは何も食べていないことを知って不意に笑ってしまうシーンを思い出してしまった。

因みに物語の説明の時に、その女のことを逃荒女と説明しているが、"荒"と言うのは飢饉のことを言うのである。昔から、作物が取れない年には村を棄てて、他郷を流浪しながら、食べ物を恵んで貰ってたりしているようだ。なので、村の男が自分も民国十七年にやっていたと老人と語っていたのは、別に物乞いが恥であると言う訳でも無さそうである。無論、農村ではの話になるんだろうけど。しかしながら張本人は辛いだろう…。あの犬に噛まれない様に木の枝を持っていたのは、対抗する為であって、老人の家に居座ったのも、物乞いで回る生活が厳しいと分かっていたから何だと感じてならない。


老人の犬に名前が無くて、劇中でゴウと言っているのは中国語で犬を"ゴウ"と言うらしいのだ。ここでも犬に名前を付けない謎があるが、それは名前をつける知識が老人には無かったと言う訳らしいが、そこまでの知識が欠如している老人には見えなかったと言う疑問もある。んで、女はニュイと言うらしく、これは女が名前を明らかにしなかった為にであろうけど、おい、女。おい、犬。なんとも変で違和感のある呼び方だ。しかしながら、中国ではゴウは相性とされているらしく、日本語字幕を見る限り、犬では無くワン公となっていた。ニュイの場合も同じらしく、おなごさん、あねさん…と言う親しみがあるみたいだ。それにしてもこの作品は、犬が餌を食べるのを嫌って、犬を殺せと言う命令がクライマックス付近で出てくるのだが、これには驚かされた。これを実施するために役人が派遣される始末であり、犬を取り締まるだけではなく、人間(この場合老人)も取り締まる対象となっていた。

それが階級でレッテルを貼られており、地主や富農はいわゆる人民の敵になっており、田畑をもち、人に貸して、自分が働かないのが地主、田畑を持ち、人に貸してはいるが、自分でも働くのが富農である。田畑を持たない人間は貧農、中農と呼ばれ、これはれっきとした味方だったらしい。だが、上層と下層に分かれ、下層だけが味方だったと言う。こうした区分は新中国が成立したときの、田畑の持ち分で決められていて、そして地主の土地や農具が没収され、貧農、中農に分配されたから、貧農、中農も自分の土地を所有することになったものの、やがて共同組合ができ、組合が人民公社に発展すると、土地は集団所有となり、個人の私有が認められなくなった。

階級によるレッテルは、依然として変更されなかったことが言われているそうだ。地主や富農は、いつ反乱を起こすかわからない危険分子とされ、村から出る事は禁止されていたそうで、映画の物乞いの女性が、村を離れていると言うだけで、いつも恐怖にビクビクしているのはこの理由があるとのことだ。発見されたら直ちに逮捕され処罰されると言うのだ。これっていわゆる南アフリカのアパルトヘイトに似た制度が日本のすぐ隣の支那大陸の上で行われていると想像するだけで恐怖を覚える。今現在正にウィグル、チベット、内モンゴルがそうである。なんとも残酷に人間の運命を変えてしまっ制度が今もなおはびこっていることが信じられない…。まだ未見の方はぜひお勧めする。
じいさんの孤独がどっと押し寄せるラスト…。