レインウォッチャー

ヴァージン・スーサイズのレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

ヴァージン・スーサイズ(1999年製作の映画)
3.5
「先生は十三歳の女の子だったことはなかったでしょ」

このセシリアの言葉が、今作のすべてを表している。
彼女は自ら命を絶ち、やがては4人の姉たちも後を追うことになるわけだけれど、その直因は最後まで明らかになることがない。今作は、そんな「わからなさ」をわからないまま、放棄ではなく尊重しようとしている。

外部の人間(地域の親たち、マスコミ、医者…)はあれこれと推測と論評を重ねるけれど、それらはきっと自らの不安に理由をつけたいがための《願望》に過ぎないのだろう。それは彼女らの親ですら同じことだ。
しかし、こんがらがった原因(と呼ぶべきものがあるとして)のうちのひとつを辛うじて取り出すならば、「私が私であることの無意味さ」に気づいてしまったから、ということがあるかもしれない。

物語の語り手は、彼女らに憧れる同年代の男子たち。現在は大人になった彼らが、想い出を振り返るような形で進んでいく。
ここにおいて徐々に気づかされるのは、彼らが彼女らを《リズボン姉妹》というひとつの塊のように見ているということだ。この年代特有の男女間の心身の発達ギャップもうまく(物語上の機能として)作用して、もともと厳格な母親の監視下で箱入りでもあった彼女らを空想上の妖精、悲劇のヒロインのように嘗めされたイメージのもと「束ねて」いくのだ。

セシリア、ラックス、ボニー、メアリー、テレーズ。
ここにおいて、《個》としての彼女らは希薄になっていく。末妹の自殺事件を皮切りにその傾向は加速し、彼女らはひとつの偶像(アイコン)になる。

男子が彼女らの部屋を初めて訪れる際の描写、点在するキリスト教関連のアイテムも相俟って、そこはまさに聖堂に見えるのだとわかる。しかしここで同じ男子としてフォローするならば、これは詮無きことともいえると思う。それほど、女子の生態とはいつになろうとも神秘で、不可解で、おそろしい。なぜなら、家庭で、学校で、そうなるべくして教育されるからである。

それに、彼女らをそのように扱うのは何も男子たちだけではない。周りの大人も、その多くが彼女らの振る舞いや生活を一般化された《姉妹》《女子》《十代》といった枠に当てはめて(無意識に)考えようとする。そこには、「女になる前に女であることを求められる」社会の基本構造のひとつが見えるように思う。

四女ラックス(K・ダンスト)に熱烈に恋するトリップ(J・ハートネット)のように、個人に関わる人物も現れる。しかし、ラックスだけを連れ出すことが叶わず、姉妹をそろってダンスパーティへ誘うこととなり、姉たちは「私たちはラックスのおまけね」とこぼす。結果的には、逃れることができない癒着(※1)を強調することになるのだ。

そして、ラックスが青い夜明けに取り残されたとき、彼女は自分自身がやはり《ラックス》ではなく《女》を求められていたことに(トリップの真意はどうあれ)気づいただろう。その後から、彼女は自棄になったような放蕩に耽るのだけれど、それは彼女なりの反抗だったのかもしれない。ひとりで目を覚ました彼女が無防備な二の腕や足の裏に感じた芝の露の尾を引く冷たさを、わたしは今も感じることができるような気がする。

やがて母親は彼女らを自宅に閉じ込めるようになり、家はまさに彼女らを覆う牢獄となるわけだけれど、彼女らが気づいた真の絶望とは、仮にあの親と家から脱出できたとしても《自由》にはなれないということだろう。彼女らの前に現れた男子たちは姫を助け出すヒーロー願望やロマンチックな夢想で頭がいっぱいであり、一人一人を見つめてはいない。
末妹の手形が残るニレの木を伐採から守ろうとした行為も、象徴的に映る。彼女らにとってそれは「セシリアの木」だけれど、大人たち(職員)にとっては「ニレの木」の一本に過ぎないということだ。

そんな彼女たちを救えなかったこの町は、文字通り「腐っていく」ことがラストには示される。残された人々は彼女たちの真意を理解することはないまま、それぞれもまた《個》など望むべくもない役割と枠組みの中へと溶け込んでいく。リズボン姉妹に象徴される、手前勝手に編み直し、美化された過去(ストーリー)だけを拠り所にして。

今作は広くアメリカという国が抱えてきた歪みの負債を指摘すると同時に、この先20年の予言のようなものであったかもしれない。彼女らは、そんな沈みゆく船から一抜けした…せめて、わたしはそんな風に考えてみたいのだ。たとえそれもまた、ただの願望に過ぎないとしても。

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※1:原作小説(『ヘビトンボの季節に自殺した五人姉妹』)では、よりこのあたりが強調されていて、「姉妹は区別がつかなくなることがあった」といった表現が頻出したりする。
もちろん、映画にすればどうしてもキャストによってイメージが固定・区別されてしまうため、同じようにはいかない。そのぶん、今作は姉妹たちに比べてより幼く頼りないルックスの男子たちのイメージを打ち出したことにより、彼女たちの寄る辺なさが浮き彫りになった印象がある。

その他、プラム〜ピンクゴールドを中心にしたガーリーな画面、センチメンタルなサウンドトラックなど、じゅうぶん「ちょっとダークな青春映画」のようにも観れてしまうコーティングが意地悪でもある。映画という表現ならではの長所を活かした、巧い映像化だと思う。