このレビューはネタバレを含みます
街並みの撮り方がウェス・アンダーソンかと思った
10代〜20代に観たら自分をエドワードに重ねて感情移入していただろうなと思う
10代は社会に参加している実感もなく疎外されているという被害者意識に似たものがあるから
「フランケンシュタイン」ベースの物語ではあるが、いま観るとわりとご都合主義というか不自然な印象
他にベッドあったのにエドワードをキムの部屋に寝かせたのなぜなんだ 恐いだろ
(弟と二段ベッドで寝る選択肢もあるのはあとでわかる)
ウォーターベッドをハサミの手で突いて穴を開けたの、あまりに性的メタファーに見えるのは自分が汚れてるのかと思った
しかし、その後ダイレクトにヘアカット依頼される女性から迫られるという性的シーンがくどめに描写される
やっぱりわかってやってるだろう
ハサミの手は男性性の象徴
このあたりで「コープス・ブライド」を「結婚にこだわる女がゾンビになってまで付き纏ってくる映画で女の怖さが最高!!笑笑」と評価していた男性レビューが悪意ではなくその通りなのだろうと認識をあらためる
キムからエドワードへの「同情」から「愛」に移行するのが早すぎて説得力がない
キムがエドワードにとってなぜ魅力的なのかの描写も薄いから「自分を許してくれる可愛い子」だから好きとしか見えない
エドワードは白塗りのボサボサした髪で、それでも愛してくれるのは“内面”を愛してくれるという演出
しかしエドワードからキムに対する目線は、もっぱら自分に対する寛容な態度と容貌のみという非対称さに限られる
純愛というより、女ぎらいで、男性性を自分で受け止められない“ピュア”な男性によるドリームに見える
もちろんこの“ピュア”は良い意味ではない
「女の人に迫られて拒んだらデマを撒かれる」のシーンも「僕はモテないわけじゃない」「しかもピュアである」「よってキムを手に入れる資格がある」というような、開き直りと正当化に見える
いい子にしていて(女を殴らない等)ピュアなのにご褒美を与えられないと不服とするような考え方を仮に適用すると、エドワードが「純愛」というのもわからないではない
結局、自分が好きだったのは“ヘンリー・セリックの”「ナイトメア・ビフォア・クリスマス」であり
バートンの美術だけ他人とのコラボでうまく生かされただけだったのかもしれないと思い始めた
今まで「ナイトメア…」と「エド・ウッド」は良くて他はいまいちばかりだと思い不思議だった
つい最近観た「バットマン」「バットマンリターンズ」は既存のシリーズと折り合いをつけるために独特の被害者意識を帯びた作家性がエンタメで丸められているからギリギリ観られた(好きではない)
「エド・ウッド」もいま見るとどうなのかあやしくなってきた
完全に観る機会を逸したが、そもそも彼の作家性と気が合わなかったのだと気づいて寂しくもある