この映画の吸血鬼・ノスフェラトゥの姿とどうしても重なってしまうのは、「野獣死すべし」(80年)の松田優作の姿です。
あの映画の松田優作は本当に異常でした。痩せこけた顔と体、死んだような目、指だけが異様に長く、生気を感じさせない恐怖感を漂わせる。夜中に1人でビデオを観ていて思わず後ろを振り返ってしまい、誰もいないことに安心して画面をみた途端に画面の中から射殺されそうな怖さがありました。どこまでが役作りなのかわからない、まさにスコア10.0級の恐怖感でした。
しかしその主人公の行動の裏には戦場体験とそのトラウマがあることが明らかにされたとたん、映画は凡庸なものになってしまった気がします。
何だ、結局流行り物をやりたかったのか、みたいな。当時のアメリカ映画のひとつのジャンルとして、ベトナム戦争の後遺症を描いた映画がありましたよね。あれです。後半に挿入されるニュース映像のようなフィルムでヘリコプターの大群がでてきたり、ロシアン・ルーレットが出てくるに及んでは、何を意識しているか大方わかろうというもので、せっかくの松田優作の姿が一気に色褪せて見えてしまったものです。ましてや大演説で戦場体験を親切に説明してくれるあたり、日本ではベトナム戦争後遺症の映画は無理ということを証明してしまったようなものです。
ならば同じ流行り物でも、当時のもうひとつの流行だった「吸血鬼ドラキュラ」をモチーフに、主人公の犯罪行為をノスフェラトゥの吸血行為の暗喩(というのかな)として描いた方が良かったのではないかと思ってしまいます。部屋でうずくまってクラシック音楽に耽溺したり、リップ・ヴァン・ウィンクルを語りかけたりする姿は、戦場の後遺症というより、ノスフェラトゥにこそふさわしいような気がするのです。(というのも凡庸な発想かなあ…。)
この映画「ノスフェラトゥ」は「シン・吸血鬼ドラキュラ」と言っても良いような秀作ですが、「野獣死すべし」でのあの松田優作がちらついて、以上のようなことを考えてしまった次第です。