レインウォッチャー

鬼龍院花子の生涯のレインウォッチャーのレビュー・感想・評価

鬼龍院花子の生涯(1982年製作の映画)
4.0
『ゼルダの伝説』の主人公がゼルダとはいえないように、今作の主人公は鬼龍院花子ではない。むしろ花子は登場シーンも決して多くはなく、ついでに印象も良くなく、表面上はそこまで目立った役割を与えられていないように見える。

しかし、ラストまで見届けると…やはり、今作はこの題であるべきだったのだろうと思える。物語の中盤で花子は生を受け、やがてその命を閉じる。一代限りに終わった極道の一家・鬼龍院家、その迅すぎた、かつ表舞台に出ることはない栄枯盛衰をそのまま象徴するのが、花子の人生だったのかもしれない。

「鬼に龍宮城の龍、院は戒名で使われる院、花は咲く花…」

時代は大正から昭和前期への移り変わりを描いていて、一家の頭領である鬼政(仲代達矢)が守り通そうとした昔気質な《侠客》の価値観の終焉もまた示している。仁を通そうとして失脚し、最後には義を守ることも叶わなかった鬼政。
鬼の厳しさと龍宮の華やかさ、そして院と花、つまりは死と生が彼らの物語にはあって、精一杯生きた。そのことだけは確かであると伝わってくる。たった一代の物語なのに、大河を見たような感慨がある作品だ。

映画は、実質的な主人公である松恵(夏目雅子)がある京都の遊廓を訪れ、件の花子の死を知る場面から始まる。そこから時代を遡り、松恵が幼い頃に鬼龍院家に売られてきてからの月日、愛憎が複雑に混じり合った想い出を振り返る。

「ある特殊で閉鎖的な環境に意志に反して身を置くことになり、反発しながらも生き抜く中で次第にその場の根本的なスピリットを受け継いでいく女」という基本構造は、後年における五社監督の傑作『吉原炎上』とごく近い。
『吉原〜』に比べれば映像的な遊びは控えめだけれど、適所に差し込まれる鮮赤(人力車の車輪とか終盤までしっかり頭に残る)、電灯の揺れや明滅で彩る情念の滾り、音量も分厚さも過剰な音楽、そして何よりキャスト陣の大ケレン芝居…などなど見どころには事欠かない。

中でも、わたしが推したいのは鬼政の正妻(=松恵の義母)・歌役の岩下志麻様である。
その圧倒的な冷たさを湛えた艶はもちろん、周囲で騒ぎが起こったり内心穏やかならずとも、『鬼龍院歌は動かない』とばかりに両の腕をしっかと組んで煙草を咥え、周囲を目で射る。紅い唇の間からは少し歯が覗いて…もはや絵やん。一升瓶は口で開けます。

しかし時折、鬼政やその妾衆、それに松恵に対する複雑な感情が彼女の翳りとなって立ち現れる。そこには《女》と《妻》と《母》が入り混じりつつ、背中で語るのみ。鬼政の隣で全てを見届けながら、多くを飲み下してきた凄み。そして後半に待つあの展開へ…退廃美極まれり。

今作といえば、「なめたらいかんぜよ」の名台詞。当然、終盤で松恵が繰り出す場面がサビなわけだけれど、実はそれまでにも何人かが同じ台詞を(そこまで大仰じゃない感じで)口にしている。その一人が上記の歌だ。

この積み重ねがあってこそ、松恵の啖呵には厚みが出る。背後にアナキンとオビワンのヴィジョンが見えたかのごとく、彼女に確かに《継承》された意志が胸を打つ。彼らの稼業や生き様は、当然手放しに礼賛できるものではないわけだけれど、その一点のパワーにおいては道があったと感じられ、「うおおおそうだ見たかコノヤロー!」って思わず拳を振り上げてしまうのだった。
"Don't think, feel." あるいは "Assemble." に対抗し得るパンチラインだと思うがや、アテは。