ニューランド

きこぱたとんのニューランドのレビュー・感想・評価

きこぱたとん(1993年製作の映画)
2.8
✔️🔸『きこぱたとん』(2.8) 及び🔸『わらじ片っぽ』(2.6)▶️▶️

 上映前にプログラム担当の女の子が出てきて、今回の特集の目玉だとか言った時、もうダメだと直感した。前に偶々少し喋る機会があったのだが、ここの職員である誇りだけは異常にあって、本来の仕事外で無意味に動き回ってたが、肝心の映画については殆ど無知に近かったし、根っこのセンスもゼロのようだった。今の館長譲りというか、今はそういった資質で無いものを隠すポーズの時代なのだろう。
 彼女が見いだして、貴重な予算を使い、新しい媒体に写し変え、上映を決行したのか、その意義は何なのか。当時の映像表現作品の平均点、それよりも少し下のところか。それを何かのメルクマールとして遺す事か。平均というのはプロの間の事ではない、当時8ミリやアナログホームビデオを使い、素人の作者も格段に増え始めていた。それらを含めての平均取りである。私らでもこの程度は作れた。
 始めのタイトルや内容を見ていって、地方TV局の企画にのっただけの作と思ってた。しかし、ラストのクレジットで分かるが、超一流スタッフが名を連ねてるように、妙に物理的厚みやヌケ・格がある。俳優も名の通った人が端々に。後で数年がかりの懸案作と知る。しかし、音楽・音響のガッと時折驚かされる編集力による、手応え以外、いくら撮影が、波面の傾けや自然と陰影の凄みの伝わり、固定と動かしのバランス(ズームや前後・フォロー移動)、冒頭の合成+空撮移動やスチル画面分割送りの巧みさ、あっても、基本・或いはそれからの解放が押さえられてない。海辺や畑、和室や洋室内、織機と深い色艶織物、バイク疾走、内面悩みの伝わりと皆の動き。(ゆっくり平行横)移動や望遠鏡アップや切返し・90゜め変と縦図、下方からの浮かび上がり感や花のアップ繰返し挟み、正にそれだけで、滲む工夫や落ち着きがない。脚本も稚拙(祖母の死や、間近い両親離婚と弟と離れ離れに沈み、小学校の恩師のいる沖縄の島を訪ね、そこでもある離島の選択と故郷への愛着確認に触れ、そして、意を織り込む伝統織物の実践を習い成し遂げ、突き抜けて立ち直る神戸からの女子中学生)で、アマより質が悪いレベル。こういうのを選ぶのは、映画制作や伝播の現場に関わってる、係わってきた、仲間内での身勝手な頭の撫で合いにしか見えない。今回は趣旨が違うとなろうが、素晴らしい才能に恵まれながら、男社会にシャットアウトを食らった人たちの、決して慰め合いなどではない、習作でも輝きを抑えられない作をもっとみたい(観なかったが、今回もごく一部はプログラムされてた)。
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 『わらじ~』。その立ち上げたプロダクションの、最初の作品だかのDCP化されたのが、その前に上映され、やはり、というか、鎌倉街道だかの自然や風物への拘り、衣装やロケハンへのしっかりした?凝り方、ジャンプカットやスロー、場所や建物・自然の抽象表現の字幕入れ、過去と現代の交錯、主観移動や視界に鳥などの象徴的繰返し入れ、音楽の伝統力等を入れても、本質がアマより押さえられてない。フラフラするカメラの定まらない揺れ具合、半端で浅い角度のカット変連なりは本質回りをウロウロ、望遠の寄り取り敢ず押え、目一杯大袈裟様式的演技の役者へのセーブのかけられなさ。全ての失笑したくなるオーバーさを抑え、厳密な限られたショットにものを言わす素材だ。五人の巫女か巡礼者の道中に、破戒僧と女、間男、半裸の男たち、洗濯女らが、叫び・探し・逃げ・放り投げ・助け・踊り・果て、色んな形で絡む(並行か)、無言象徴舞踏時代劇だったか、人たち以上に林や野や水面・鳥ら、陽光と白霊気と交感してく、展開だったか、あやふやで観たのに殆ど覚えてない。
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