Jeffrey

ニーチェの馬のJeffreyのレビュー・感想・評価

ニーチェの馬(2011年製作の映画)
4.0
「ニーチェの馬」

冒頭、暴風が唸りを上げる1889年のトリノ。農夫とその娘、疲弊しきった馬、単調な日々、突然の来訪者、流れ者、行くべき場所、不吉な風、夜、ジャガイモ、窓から外の風景。今、ベーラの最終章が幕を開ける…本作はタル・ベーラが2011年に監督した洪、仏、瑞合作映画で、彼の最後の作品である。今年の9月に彼の集大成であり最高傑作の「サタンタンゴ」が国内で初ソフト化され購入して初鑑賞して、この度彼の特集をYouTubeでやるため、再鑑賞したが傑作。脚本は引き続きクラスナホルカイ・ラースローが担当しており、哲学者ニーチェの逸話を基に人間の尊厳を追求し、深遠な黙示録として幕を開けた映画で、独自の美学で構築されたフレーム作りは圧倒的で、徹底的に排除された台詞わ極限までそぎ落とされた演出で、生と死に向き合う静謐な世界は息を呑むほど美しく圧倒される。


本作は冒頭に、1889年のトリノの現状を伝え、馬に近寄るニーチェの行動がナレーションとして流される。黒い画面からファースト・ショットは暴風がうねる中に馬車が進むシークエンスが激しい音楽と共に写し出される。カメラは長回しで馬車を引っ張る老人を捉える。そのまま前進し、馬の表情をカメラに収める。暴風が視界を阻む。ミストのごとく画面は琥珀色になりつつある。そして画面は一度フェイドアウトして字幕で1日目と表示される。続いて、馬の飼い主・父が馬を引っ張っている。彼は風が舞う中人里離れた自宅へ到着する。家から娘が出てきて、父親の助けをする。さて、物語は1889年トリノ。ニーチェは鞭打たれ疲労した馬車馬を見つけると、駆け寄り卒倒した。そのまま精神は崩壊して二度と正気に戻る事はなかった。農夫とその娘、年老いた馬が暮らす人里離れた荒野の中の一軒家。重労働でギリギリの生計を立てている彼らの唯一の収入源は馬と荷馬車。父は荷馬車仕事を、娘は家事を行い、暮らしぶりは貧しく限りなく単調だ。熟練の動作と季節の変化、1日の時間によってリズムと決まりきった仕事が課されるが、その重荷が残酷にのしかかる。そして突然の訪問者が彼らの単調な日々の生活を脅かす…と簡単に説明するとこんな感じで、難解である。



いゃ〜、今回人生2度目の鑑賞したのだが、あっぱれである。ベーラ自称最後の映画は、これまでのどの映画と同じように解釈の余地があり、19世紀後半の困難な時期に生き残るために苦労している男と彼の娘、そして彼らの馬を追っていく。それは美学が意味する全ての繰り返しを備えたシンプルで実質的にミニマリストの映画であり、21世紀初頭に監督した「ヴェルクマイスターハーモニー」で開発された不調和の小さなスケールをいくらか思い出させるクレッシェンドに徐々に到達しいく感じ、堪らない。本作アイデアは、ニーチェがトリノで過ごした時期についての外典の話(ベーラはそのようにラベル付けしてないが…)から来てる。これは、馬車の運転手が馬を鞭で打つのを目撃したときに哲学者がどのように崩壊したかを示し、映画製作者たちは、馬に次に何が起こったのかを調べることに興味を持つ。

彼らはまた、この事件を哲学者による彼のすべての作品の誠実な撤回を表していると見れる(またはそう示唆している)。 ニーチェは精神病に過ぎず、価値の低下を広める責任があると彼が信じていることをベーラは話を聞いて理解することができる。よって映画はそのような衰退を描いているが、自由連想法以外のニーチェへの実際のリンクとトリノのエピソードへの実質的な知的リンクがなされる。現代の倦怠感の症候学と病因は疑問の余地があるし、それが映画の弱点だったと言えなくもない。自由な移住と同性愛者の権利が社会崩壊の原因であると信じている人は、ソーシャルメディアとスペクタクルの社会の革命を指摘する人と同じようにこの映画を見るとどう思うのだろうか…。最後にあのじゃがいものむき方と食べ方すごい独特。
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