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リバティ・バランスを射った男のharunomaのレビュー・感想・評価

5.0
『リバティ・バランスを撃った男』は「伝説となって広まった嘘」(神話)と事実をめぐり、ランスとトムの対照的な二人を描きつつ、神話の形成、それ自体が主題となっている。「野蛮時代から正義の時代への移行」の中で、民主主義のために犠牲となること。
ところで、『「アメリカ」なるものと常に完全な一致を示す映画は、それゆえ二重のメカニズムを持った「民主的機械」として機能し、同時に統合と排除の両方向で作用したのである。』とジャン=ミシェル・フロドンは言い、『国民の創生』を含め、アメリカ映画における主にインディアンや黒人の表象の問題を例に挙げ、『演出上ではフレーミング、つまり「フレーム内」と「フレーム外」の分割を通して表現される』としている。しかし『リバティ・バランスを撃った男』におけるフレームの問題では、黒人が排除されてはいない。ランスがシンボーンの町の人々に読み書きを教える場面の小さな学校には、メキシカンや移民の子どもの姿がある。アメリカの歴史についての授業の中で、黒人のポンペイに至っては「アメリカ合衆国憲法」まで読むカットさえあるのだ。むしろ、学校(教育)という民主主義の象徴的な空間であるランスの教室いることができないのはトムの方であり、排除されているとさえ言えるのではないだろうか。
トムは、しかし、自分が属するであろう力の世界、つまりはランスとリバティ(Liberty Valance)の決闘のシーンでもフレームの外にいることになる。後日、回想によって、リバティを撃ったのは物陰に隠れていたトムであることが示される。リバティを撃ち殺すことは、トムが属していた旧時代の世界の終わりであり、それはトムの存在意義を失うことでもある。フレームの外から神話を作った者が、文字通り、最終的にはフレーム(世界)の外に追いやられるということ。あるいはまた、フィクション(神話、民主主義)を作るために暴力を行使し、なおかつ暴力を行使したものが犠牲となるという構図。すべてを告げた後、トムは立ち去る。おそらく、リバティを撃った後に、何も言わず、立ち去っていたのなら、観客はトムを影の英雄として見ることができたであろうが、トム個人としては、その大儀(民主主義)のために犠牲になることに耐えられない。酒を飲み、暴れ、いつか恋人(ハリー)と住むために増築していた家をも焼いてしまう。その場面。
酔っ払ったトムが暗い家に帰り、ランプを持ち、増築した部屋に向かう。家に入るところから1カットで撮られ、カメラは、ランプを持ったトムの前進を、正面からトラックバックで追う。最終的にトムは、居間と増築した部屋の境界線である扉に背もたれ、増築した角を見据えランプを投げることになるのだが、その扉へ近づく手前のトムは、一瞬、カメラに視線を定めているように見える。暗闇の中、ランプの光だけで浮かび上がるトムの顔は、苦渋に満ちたものだ。「表象されるのが人間の顔である場合、とりわけ明白なものである」、映画という〈機械による贖罪〉。しかしここには、敗北の後の男の、亡霊のようなイメージしかない。暗闇から現れるイメージは、そのまま映画の機構、すなわち映写=投影を連想させる。見たくない真の英雄のイメージ。『「アメリカ的フィクション」は近代的自由の理想のポジティブな叙事詩ばかりではなく、それを作り上げると同時に裏切る隠匿と断罪の上にもまた築かれる』まさに、そのことが『リバティ・バランスを撃った男』の中にあり、そのアメリカのフィクション(神話、民主主義)を作るために犠牲となった敗者のイメージがあるのではないだろうか。
ところで、青山真治が指摘するように、この映画のラストショットは手持ちである。ランスの長い回想が終わり、ワシントンへ向かう列車の中で「ここ(シンボーン)に帰りたい」と言うランスとハリー。二人を乗せた列車を捉えるラストカットは、ここだけが手持ちのカメラで画面が揺れている。ファーストショットも町に帰ってくるランスとハリーが乗った列車のカットで始まるが、固定の画面である。さらにこの作品は1962年のカラー映画全盛期に、モノクロで撮られている。ゴダールの言葉(「モノクロとは喪に服す色だ」)を借りれば、この作品自体が何者かへの追悼であるだろう。トムの喪に服すために町に戻ってきたランスは、しかし、彼もまた、孤独に死んでいったトムと同じく、神話によって苦しんでいる。町は州になり、民主主義は樹立され、「荒れた砂漠だった土地は楽園」となった。伝説の事実を聞かされた新聞記者は、事実を記事にする(『ペンタゴン・ペーパーズ 最高機密文書』)ことはなく、人々は、伝説を語り続けるだろう。物語は終わらない。『リバティ・バランスを撃った男』たちは、英雄として花束をもらうことなく、アメリカの国民だけが、その神話を支えている。そして、私たち観客は、国民の創生ではなく、創生神話の崩壊を見ているのではないだろうか。そしてまた不安定な手持ちカメラは、映画と国民国家を繋ぐ、不安定なメカニズムの構造を示唆していないだろうか。「イメージは喜びだが、傍らには無がある。無がなければイメージの力は喚起されない」(ゴダール『アワー・ミュージック』)のだが、無のイメージを投影することは、誰にもできない。
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