あんじょーら

グラン・トリノのあんじょーらのネタバレレビュー・内容・結末

グラン・トリノ(2008年製作の映画)
2.8

このレビューはネタバレを含みます

フォードで長く働き、妻に先立たれ、1人暮らしをし、2人の息子とは疎遠、その娘である孫たちとの関係も非常に薄い、割合見た目に左右されてしまっているように感じさせるステレオタイプな頑固親父であるウォルト。彼の周りの家はいまや様々な人種の人々が住み、なかなかお互いを理解出来ずにいます。頑固であることの裏には、朝鮮戦争時の兵役が暗い影を落としています。そしてもちろん自身に厳しいために、周りにも厳しく、その結果孤立しています。


隣りに住むアジアからの移民の一家には父親がいなくて、娘であるスーが家庭を仕切っていますが、弟のタオにもう少し自立して欲しいと家族が願ってもいます。タオは同じ人種の若者グループからも相手にされないのですが、ある事件をきっかけに隣人ウォルトの愛車グラン・トリノを盗むことに同意し、実行するもウォルトに見つかり失敗。若者グループからも浮いた存在だったタオは、ウォルトに謝罪してから、奇妙なウォルトとタオの関係が深まってゆきます。


という少年タオの成長と、頑固なウォルトの心の交流を描いた物語の絡みが見ものです。


イーストウッドの作品が好きな方に、マッチョに酔える方にオススメ致します。




ネタバレありです!しかも、どちらかというと私はこの映画の否定派です。何故否定的になってしまったのか?を理解していただく為にはどうしてもネタバレになってしまいますので、ここからはもう見られた方はどうぞ。もし未見の方は是非見られてからお願い致します。そしていつも通りただのど素人な私の個人的な感想です。



























ウォルトの、息子や孫に対する態度は非常に分かりやすい、そして相手の説明を受け入れず、よってこちらの意思を示すこともない、分かり合おうという歩み寄りを拒否した今までの態度のお互いの積み重ねであろうと思われます。タオを最初に少しだけ見直す場面が、落とした買い物を拾ってやるなんてちょっとベタ過ぎませんか?たったそれだけで割合心を許してしまっています。自分の息子にも孫にももう少し自分から心を開く度量があれば良かったはずなのに。


スーが黒人3人組みに絡まれているのを助けるシーンも(それ以外にも多々あるのですが)老人が相手に言うことを聞かせるのに、ウォルトは常に暴力という銃を使った脅しを傘にきて相手をのして行きます。まだ腕力に訴える方がましな気持ちもあったのですが、銃を使うことで非常にスケールを小さく感じさせます、私にとって、ですが。「許されざる者」もそうなのですが、同じ暴力という銃を扱うにあたり、正義と悪という構図があまりに分かり安すぎるように感じました。あくまで正義の側に立つイーストウッドですが、基本的にウォルトがタオの顔のやけどに逆上しなければ、ウォルトが介入しなければ、タオに解決させる筋道を立てなければ、スーが襲われ、事態がエスカレートしなかったのではないか?と思うのです。その時点では、ウォルトは既に死期を悟っていたのでしょうし、だからこそ息子に対して電話さえかけているのですが、当然今までの成り行きからして上手くコミュニケーション取れるはずもなく、この点についてはまさに自業自得でしょう(息子との距離のとり方はやはり先に生きている親の側にその責任が多くあるでしょうし、息子側からは、たとえ全く気に入らない提案だったとしても、すくなくとも交渉をしようという意思を示していたのを、元気だったウォルトは無下にお引取り願っています)。いやらしい見方かも知れませんが、結局のところイーストウッドはただのお子様で、折り合いをつけたり妥協したりという術を用いないというワガママを、暴力というチカラを用いて行うように見えるのです。それをマッチョと呼べるかは別としても、「ぶれない」という意味ではたしかに「ぶれていない」のかもしれませんが、その姿勢を貫くならば、病気になって息子に電話をかけることを「ぶれた」と言えるのではないか?とも感じてしまうのです。都合の良い時だけイイカッコしたように見えるのです。


イーストウッド作品では自らの手で解決するパターンが多く、その分スカッとするのでしょうけれど、死期を悟った男が銃を使わないで解決する意味に於いて、これまでのイーストウッド作品とは違う新たな落としどころとして、その点は良かったと思います。ただし、その前に死期を悟っている部分が少し気にはなりますが。もし「病」というファクターがなかったのなら、あるいはいつものような正義の暴力による解決だったのかも知れません。


やはり、タオの家が銃で襲撃された段階で警察の介入があるのが普通であったと思います。もちろん、介入が無いからこその、イーストウッド節ではあるのでしょうけれど。


死に様を見せる、というならば、この方法しかなかったのでしょうけれど、タオは成長できたのでしょうか?


チカラの解決ではなく、死に様というロマンチストでもない、それでも生きていかなければいけない現実との折り合いのつけ方や、どうにもだらしがない解決策を「センチメンタル・アドベンチャー」と「ブロンコ・ビリー」が示している点を私はより強く評価します。男の生き様と死に様なら、現実との折り合いの男らしさというなら、「センチメンタル・アドベンチャー」や「ブロンコ・ビリー」を越えて欲しかったです。そうういう期待の大きさが失望に繋がったのかもしれませんけれど。