メーターが振りきれました
僕は音楽を幅広く聴くんですが、
デスメタルも聴くんです。
でも、あまり理解されません。
そりゃ、そうです。
デスメタルは音楽の世界では圧倒的なマイノリティだと思います。
そんな、マイノリティな存在にスポットをあてた映画がこれなんです。
舞台となるのは、竜巻の被害で疲弊したアメリカの田舎町。
猫を肉屋に売って小遣い稼ぎをする二人組の少年を軸に、彼らを取り巻くさまざまな人々がドキュメンタリーのように淡々と登場していく作品。
ストーリーは無いに等しいです。
むしろ、ストーリーがないからこそ舞台となる田舎町の日常の退屈さだったり魅力のなさが感じ取れてしまう。
ただ、僕の日常だって実は淡々と過ぎ去っているわけで、そこにストーリーなんてありません。
そんな感覚を映画にしちゃうのだから、監督ハーモニー・コリンの感性は異色です。
その異色な感性は荒廃した田舎町のマイノリティな人々に向けられています。
正直、友達になれないような人ばかり出てきます。
人生で出会うか出会わないかというレベルの人達です。
そんな人達のインタビューシーンや日常のひとコマ的なシーンが、二人組の少年達のエピソードの合間に挿入されています。
そして、バニーの頭飾りをした謎の少年が時折現れます。
映画の表紙の少年ですね。
その子のどことなくポップなおしゃれ感と独特の雰囲気を醸し出すマイノリティな人々、ショッキングなシーンや不釣り合いな音楽がごちゃ混ぜになって脳を攻め立てます。
ハッキリ言ってメーターが振りきれました。
体重計ってメーターが振りきれると、また0kgスタートになりますね。
頭がそんな状態になり、かえってクリアになっちゃいました。
そのメーター振り切れ頭で、続けざまに2回目の観賞をしました。
そしたら、この映画、
まっとうなやり方かどうかは分かりませんが、
自分と価値観の異なる存在をどうやって受け入れるか、
試されているような気がしました。
自分の生活圏の外側には価値観の違う人ってたくさん存在しています。
そしてあまりにも価値観や生活スタイルの異なる人達の事をマイノリティと呼んでしまっているわけです。
価値基準から逸脱していれば、法で縛ったりあるいは黙殺しているのが現実です。
その不健全さを作り出して自分達はマジョリティだと言い張っている訳です。
その事実を、この映画が突きつけているのかと一瞬思ったんです。
でも、そこまで社会派を気取った映画じゃないんですね。
たぶん、マジョリティだのマイノリティだのそんなことはどうだっていいんです。
皆と仲良くしようとかそういう甘ったれた事でもないんです。
どんな人達でもこの世にいます。
多種多様です。
この四字熟語に込められている意味には、相容れない存在も含まれています。
それが分かっていても、存在を認めることがどんなに難しい事か。
そしてどこまでを許容するかの線引きの難しさもあります。
多種多様のなかに犯罪者も含めるべきか否か。
それはもう別次元の話です。
ただ、前提として世界に多様な人がいるという事実を僕たちは認めないといけないんです。
そうしないと何も始まらないし、世界は良くならない。
あれれ、また社会派ぶってきましたね。
たぶんこの映画にこんなメッセージ性はないような気がします。
頭が、ごちゃごちゃしてきました。
ただ、あるものはある。
それだけな気がします。
そんな事を言った賢人がかつていたような。
それで、そんな風に考えたらかえって、じゃあ自分はこのまま自分らしく生きよう、そんな前向きな気持ちにすらなりました。
2回目のメーター降り切れです。
恐ろしくとっ散らかったこの映画に、何故か勇気をもらうという始末。
僕は単純なんでしょうか。
複雑なものもメーターが振りきれれば単純なんだと知りました。