青雨

未来世紀ブラジルの青雨のレビュー・感想・評価

未来世紀ブラジル(1985年製作の映画)
4.0
もしもフランツ・カフカ(1883-1924年)が、ジャン・コクトー(1889-1963年)のように映像の時代まで生き伸び、何らかの奇跡的な偶然が重なったならこんなふうにも撮っただろうか。僕にとってはそう思わせるような作品。

監督のテリー・ギリアムについて多くは知らないものの、その風貌も含めたバイオグラフィやフィルモグラフィを眺めていると、必ずしもカフカ的なテーマを好んだわけではなく、ある時期のテリー・ギリアム(A)とフランツ・カフカ(B)が「A∩B(AかつB)」で表されるような、積集合(共通集合)の部分をもったように感じる。

その後に撮った『12モンキーズ』(ブルース・ウィリス主演, 1995年)を観ても、本質的にはロマンティストなんだろうと思う。

いっぽうフランツ・カフカには、いっさいロマンの要素はない。もしあるとしても、それは摘みとられ踏みにじられるために存在する。学生時代から少しずつ読むなかで、身につまされるように感じたのが29歳の頃。20代という、屈託に満ちながらも疑いようのない青年期が終わろうとするなか、それまでは寓話のように読んでいた物語に、底知れぬリアリズムを感じたことを鮮やかに覚えている。

ある日突然のように、日常的に行使していた論理や道徳が通じなくなる。周囲が一斉に裏切り始めたように見える。しかしやがて、そうではないことが次第に分かってくる。それがまともな道だと思い歩き続けてきた結果、どこかで分水嶺をまたいでしまったことに気づく。そしてもはや引き返すことのできない迷路のなかに、1人取り残されることになる。

カフカが、その代表作である『変身』や『城』などの作品に描き出したその風景は、この『未来世紀ブラジル』(原題:Brazil)の風景と同系列にあるように思う。情報省に勤める主人公サム(ジョナサン・プライス)は、保険局の役人だったカフカの境遇ともたいへん近い。また僕の実感としても、その風景は一層リアリティを増してきているように感じる。カフカの作品はその後の僕の人生の予言書でもあった。

システム(管理社会)が個人を圧殺する恐怖と言ってしまえば、罪は一見するとシステムにあるように思える。しかし、本当に恐ろしいのは、システムの誤謬(ごびゅう)よりも、むしろ自らシステムに殺されることを望んでいるとしか思えない、総体としての群集性のほうだろうと思う。

それは想像力の放棄から始まる。カフカと同様に、このことを本作は描き出しているように感じる。



いっぽうそれとは別の要素として、本作と『12モンキーズ』に描かれたディストピア的な風景の深層に感じるのは、陶酔的な初恋の感覚。主人公サムが繰り返し見ることになる、囚われの美女のあの感覚は、モテない少年から冴えない大人になった者にしか許されない甘さを持っている。

僕自身については、本来であればそのコース(モテないから冴えない)に乗るはずだったものの、ある時に迎えた心の変容が外見にまで作用するように、なぜか周囲から美青年と呼ばれる部類に入ってしまったため(図々しくも自分で言えるのは、実際にはそう思っていないから)、いずれの感覚も知っている。

しかし確かに1つ言えることは、外見が美しくなると、内面のロマンの鮮やかさは急激に沈んでいく。

そして『未来世紀ブラジル』では、カフカ的なディストピアの要素とロマンティシズムの要素とが、分け難く同居しているものの、『12モンキーズ』に至っては、ロマンティシズムの要素が色濃く表れることになる。

僕個人の感覚としては、そのロマンの味わいのほうに強く心を惹かれる。
青雨

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