例えば桜の花びらが散るとき。
花びら自身は自分が散っているということをおそらく認識していない。
あんなに美しく見えるのに、それは桜の壊死した一部に過ぎず、一見すると地味で頑固なように見えるボロボロの枝や幹の方がよっぽど生きることに素直だったりする。
そういうように、美しさというのは客観的な概念なんだと思う。
どんなものや人にも本当は美しさはあるのだけれど、桜の花びらとは逆にそれが目に見えず、努力しても見出すことができない場合だってザラにある。
自分という存在については尚更だ。
僕らは主観的に主体を捉えることはきっと何年生きてもできるようにはならないし、挙句の果てにはカッコつけて「無我」をゴールにしてしまう人間もいる始末だ。
例えばそれは次のような事だ。
隣で寝ているOLに若き日の母の姿を照らし、遠くで鳴る革靴の音にまだ見ぬ我が子の鼓動を重ねて詩に詠み込んでは涙を流す。
美しさや儚さなんてものはどこにだって転がっているはずなのに、自分の中にだけはそれが存在しないという冗談じみた直感に頭を悩ませては、くたびれた身体を小さく揺すって旅に出たり、泥のように深く眠ったり。
僕らは結局はそういった真実から逃れられない、可愛らしい動物なのだ。
山猫は砂に燻んだその瞳に何を写していたのか?
画面に映った美しきイタリア貴族たちは僕らに何を見せたのか?
生きることに正直になることとは、時間をかけても癒えない傷を抱えたあの枝を、明日の朝日の微睡の中に突き立てるという事なのかもしれない。
非常に綺麗な作品だと感じたからこそ、同時に人間の醜さも透いて見えてくるような、そんな時間をこの映画に分けてもらった気がする。
ヴィスコンティはやはり天才だった。