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山猫のtsuraのレビュー・感想・評価

山猫(1963年製作の映画)
4.8
人には幾つもの忘れ物がある。

無論、私の映画人生に於いても鑑賞を熱望してもいつしかその熱は冷め、その後には忘却の彼方へ吸い込まれてしまうなど茶飯事だ。
そして沢山の映画雑誌やSNSを始め、幾万の情報を見聞してる間に置き去りにしてしまっていたこの作品。

遂に私は「いつか鑑賞の機会が巡ってくれば」と言う無限の時間からこの作品を掬い出したのだ。
そして、断言して言い張る事では無いが恥ずかしながらも本当にこの作品をスルーしていた自分も叱責したい、よく今まで自分は"映画好き"と言えたもんだなと。
それくらい見逃すには大きな魚だった。
でも実はこれを見るに値する経験値を積んでいなければ私はこの作品の魅力には1㎜も触れれず洗い流してしまっていただろう。



さて本作は19世紀半ばのイタリアを舞台にイタリア統一というブルボン王朝時代の終焉とそれから勃興していく新たな時代の潮目に向き合う事となった貴族の話である。

それは簡潔に"没落"という言葉で淘汰してしまうには余りにも多大な情報量と幾千のドラマに因って綴られた時代の変遷を辿る物語であった。

そして原作者ランペドゥーサ、監督のヴィスコンティはいずれも貴族の出自、つまりは貴族の末裔でその映像に納めている再現度は寧ろ再現という域を超越しておりこれは本物を起こし直した、という表現の方が余程近いだろう。(事実舞踏会の撮影には本物の貴族や建物を使用し、空気感まで再現する為に蝋燭を多量に焚いての自然光撮影だったらしい)

そして皆が口を揃える映画史に残る名シーン、舞踏会のシーンはまさに貴族の生き様を刻んだかのような歴史の舞曲と表現すれば良いのか、舞い踊り続ける様はそれこそ人間達の悲喜交々。
見ているうちにこれはある種の宇宙を望むかの様な圧巻、としか表現出来ない文化芸術の爆発が見てとれる。

それに作品がフォーカスしている点はそんな広角だけに終着せず、人間の純然たる欲求即ち子孫繁栄を切に願う主が時代に対して一族をどう未来に託していくべきかという決断の岐路に立つ姿は劇中ではある一瞬を切り取っている筈が、貴族の主であるサリーナ公爵ことファブリツィオを演じたバート・ランカスターの重厚な語り口と迫力、そして貴族=上流階級という想像し難い「世界」の構築を実に円熟味と人間味で語る姿だけで人生の総てをまるで表現しており、彼のその凄みだけを例えるならば私にとってはエミール・ヤニングスの「最後の人」。
あの時の彼を彷彿とさせる心に沁み入る演技には最早、筆舌に尽くし難い。

終盤あれほど強力なエネルギーを放っていた人物が、華やかな舞踏会の熱気と移ろいゆく時代の流れにまるで取り残された老人の如く萎み、休息に立ち寄った部屋で「死の床にある主人」の絵画に自分を照らし、命の終わりが自分にも近いうち来る事を悟る姿は最早涙無しには見られない。

海千山千を辿った人間でも栄華を極めた世界でも永遠を見れなく死にゆくだろう話に触れるに中世の英雄に叙事詩が表裏する。


この作品の魅力は話せば尽きない。

この作品はオープニングから凄まじい。ニーノ・ロータ作曲の音楽がシチリアの絶景とそこに佇む邸宅を全て包括するかの様に捉える。

もうこのオープニングの数分間に刻まれるワンカット、ワンカットで心を鷲掴みにされてしまう。


例えばタンクレーディと市長の娘アンジェリカが初対面するシーンはまさに「ロミオとジュリエット」の様な既に2人の因果は決まっていたかの様な煌めきと実世界の混沌を感じずにはいられないわけだが、兎に角演じる2人のアラン・ドロンとクラウディア・カルディナーレの魅力の吸引力はダイソンの掃除機も真っ青になる程凄い。
比喩表現を幾重に繰り返して申し訳無いがなんせ、クラウディア・カルディナーレの初登場シーンだけでも煌く宝石を手に取った様な眩さ。

そしてそれに勝らんとも劣らぬ魅力で無ければ無理とばかりにタンクレーディを演じる男優も双璧を成す美しさには目が眩みっ放しだ。
その彼こそがアラン・ドロンであり、彼の格好良さたるや…同性だが彼みたいな端正
なマスクを持った男性に詰め寄られたりしたら…イチコロだろうね笑

男性的な世界を描いてる一方で、女性達が見せる"目線"にも注目して欲しい。
様々に思惑が絡み合い、各々の内心に如何程の想いがあるのか、時折彼女達1人1人を写すカットはこの貴族社会の影を表面化させている。


「純血主義的な世界」とまで過度では無いが、上流階級の血に拘る世界という何処か物悲しく狭い世界の、ある時代の、ある種取り残された物語をラストに差し掛かるにつれ壮大なドラマから1人の人間へと着地をみせる。
そこには映画的旨味が更に滲み出ており、ファブリツィオが終盤、夜空に一点の輝きをみせる金星に呟く「いつになれば永遠の世界で会えるのか」…

彼が標榜とした世界は、一族の長き繁栄、そして夢見た永遠…人とは、人生とは儚くあまりに無慈悲、そして何かを成し遂げるにはあまりにも刹那で。

なんとも彼が熱心だったキリスト教に具わる様な敬虔な教えに自身が近づいていけない現実がなんとも無慈悲であり、皮肉であり、つまりはそういった自分ではどうしようもない領域、世界、世代…というものがあるのだと諭されている様で人間の一生の儚さを痛感させられた。


話の纏まりが保てなくなったのでこの辺で自分の思いの丈は封印するつもりだけど、本当にこの作品のもつ気品とその出色の出来については簡単には説明が付けれないほど素晴らしくその"凄み"は迫力と同義で映画に介在しているのは最早、神々しさと言っても過言では無い輝きなのだ。

市井を生きる私達が歴史を俯瞰出来るという贅沢。
ヴィスコンティの美学と出生のルーツへの想いが作品の端々まで迸っており此処に極めり。

映画史に残る重要作品は誰が、いつ見ても後悔の無い逸品でした。
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