凡人としての解釈
三国志の時代に、魏の楊修という人がいました。
彼は主君の曹操が何気なく使った「鶏肋」という言葉を、ただ一人軍の撤退と解釈します。
最終的に軍は撤退しましたが、楊修は処刑されてしまいます。
彼の深読みがドンピシャ過ぎて曹操に恐れられてしまったんだとか。
何だか救われないお話です。
片や、言葉の解釈を廻って人々が振り回されてしまったというお話があります。
オーソン・ウェルズによる渾身の一作。
新聞王ケーンが死ぬ間際に残した「バラのつぼみ」という言葉を廻る彼の回想録です。
どうやら、1941年のアメリカに楊修はいなかったようです。
この映画。
冒頭から人を引き込む魔力のようなものがあるんですね。
ケーンの臨終シーン、ゴシップ調のニュース映像、記者の会議シーンと場面が次々と変わっていく。
観客は徐々に映画に入り込んでいくわけです。
その演出が非常にうまい。
唸ってしまう。
気が付くと僕ら観客は、キーワードとなる「バラのつぼみ」の言葉を劇中の人物と同じように追い求めているというわけなんです。
そして、ケーンの回想シーンに突入すると、彼の力強い言葉や魅力溢れる振る舞いに引き付けられていきます。
劇中の人々と同じようにケーンに魅了されてしまうんですね。
これがオーソン・ウェルズの狙いなわけ。
しかし、後半になると地位や権力を手にしたケーンが僕らから少しずつ離れて行ってしまう。
彼は莫大な富を築きはしたけれど、
彼が言葉の力で手に入れたものがとても空虚なものだったと僕らは気付きます。
僕らはケーンの言葉に踊らされていたんですね。
この辺りでオーソン・ウェルズがニヤリとしているはず。
そして、「バラのつぼみ」の結末。
解釈は色々出来ますが、僕は大きな意味はあまりないと敢えて思いたい。
何かあるのではと深読みさせるところがオーソン・ウェルズ最大のいたづら。
権力者の魅力的な言葉に踊らされ振り回される僕らに対して投げ掛けられた強烈な皮肉なんじゃないかと思うんですね。
その皮肉を僕らに突き付けるための計算し尽くされた演出。
そして、それをエンターテインメントに昇華する技術。
脱帽です。
オーソン・ウェルズさん。
意地が悪すぎますって。
楊修にはこの映画、楽しめないんだろうな。
凡人で良かった。